シオン賢者の議定書
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または、1902年にロシア人の反ユダヤ主義者により捏造されたといわれる[9]

1902年4月7日、ミカエル・メンシコフ[10]がユダヤ賢者による世界支配が3千年間計画されてきたと報じた[11][12]。メンシコフはある女性から、ニースのユダヤ人倉庫から盗まれた文書であるとして渡されたと言った[11]。(この女性については後述する。)

歴史家のノーマン・コーンによると、議定書が最初に世に出たのはサンクトペテルブルクの新聞『軍旗(ルースコエ・ズナーミャ(ロシア語版)、ロシア語)』で1903年8月26日から9月7日ユリウス暦)にかけて短縮版が連載され、編集長は反ユダヤ活動家のP.A.クルーシュヴァン(ロシア語版)だった[13]

1903年には議定書がロシアで一般に出版された。同年にはロシア政府がシオニズムを禁止している[14]

1905年1月に14万人の労働者によるデモに対して銃撃される血の日曜日事件が起き、2月にはモスクワ総督でロシア大公セルゲイ・アレクサンドロヴィチが爆弾で暗殺された。
作者

量販された議定書の最初の刊行者はロシアの神秘思想家セルゲイ・ニルスともされ、発行は「1902年-1903年」とあり、ロシアで書かれたものとされる[15]。ニルスの書物『卑小なるもののうちの偉大??政治的緊急課題としての反キリスト』[16]は1905年の秋に出版され、ロシア皇帝ニコライ2世に献上するために作成されたとされる[17]
ピョートル・ラチコフスキー

また、文書はロシア帝国内務省警察部警備局(オフラーナ)在パリ部長のピョートル・ラチコフスキー(ロシア語版)がエリ・ド・シオン(ロシア語版)なる人物の別荘を家宅捜索した際に得た文書を改竄したものにニルスの序文を添えたものであった[18]。ラチコフスキーが改竄を行った目的は、「ロシア民衆の不満を皇帝からユダヤ人に向けさせるためにこの本を作成した」ともされるが、ラチコフスキーの本当の目的は、エリ・ド・シオンのシオン(Cyon)とシオン賢者のシオン(Zion)がロシア語では同じ綴りになるということを利用して間接的に「議定書」の出所をエリ・ド・シオンになすりつけることにあったのではないかと言われる[19]

ストルイピン大臣が憲兵隊に調査を命じると、この文書が偽書であることが判明したため、皇帝ニコライ2世はこの文書の廃棄を命じ、ラチコフスキーの立身出世には役に立たなかった[20]。ラチコフスキーはその後、反ユダヤ団体黒百人組のロシア民族同盟の結成に関わった[21]

1905年1月21日にはロシア第一革命に繋がるゼネラル・ストライキが発生した。同年12月(ユリウス暦)には既に、議定書の完全版を収録した『諸悪の根源??ヨーロッパ、とりわけロシアの社会の現在の無秩序の原因は奈辺にあるのか? フリーメーソン世界連合の新旧議定書よりの抜粋』という冊子が発行されていた。これは、革命派、社会主義者の暗殺とユダヤ人虐殺を目的とした極右団体黒百人組の創設メンバーであるG.V.ブトミが発行した[22]

カタジナ・ラジヴィウ公爵夫人は1921年ニューヨークでの講演で、議定書は1904年から1905年にかけて、パリにおけるロシア秘密諜報機関の責任者ピョートル・ラチコフスキーの指示により、ジャーナリストのマトヴェイ・ゴロヴィンスキー(Matvei Golovinski)とマナセーヴィチ=マヌイロフ(Manasevich-Manuilov)が執筆したと述べ、またゴロヴィンスキーはモーリス・ジョリー(Maurice Joly)の息子シャルル・ジョリーと共に「フィガロ」紙で勤務していた、と述べた[23]。1933年から1935年にかけてのスイスでのベルン裁判(Berne Trial)においてカタジナ発言について以下のような疑義が出された。マトヴェイ・ゴロヴィンスキーが彼女に議定書の草稿を見せた1905年は、既に1903年に「ズナーミャ(Znamya)」紙に議定書が掲載しされていたことや、1902年にラチコフスキーは更迭され、サンクトペテルブルクに戻っていることと矛盾しており、「アメリカン・へブリュー(The American Hebrew)」および「ニューヨーク・タイムズ」での誤字の可能性を指摘された[24]
ユスティニア・グリンカ

メンシコフが1902年4月7日に文書を渡された女性について、筆名L.Flyは、ロシア将軍の娘で神智学徒のユスティニア・グリンカ(Iustin'ia Glinka、ユリアナ・グリンカ(英語版))であり、彼女は1884年にパリでフランスのユダヤ人のJ.S.シャピロ(Joseph Schorst-Shapiro)から文書を購入後にロシア語に翻訳し、ロシア帝国憲兵団[25]長官Petr Vasl'evich Orzhevskiiに渡したとした[11][26][27]

ベルン裁判で社会民主主義者のボリス・ニコラエフスキー(Boris Ivanovich Nikolaevsky)は、議定書はフランスのフリーメイソンのロッジの倉庫から秘密警察情報員のグリンカ夫人の指示で盗まれたと証言した[11]。ニコラエフスキーは、ジュリエット・アダム(Juliette Adam)とIl'ia Tsionの団体にも参与したグリンカ夫人は、議定書のロシアでの頒布に大きな役割を演じたと考えた[11]。ただし、ノーマン・コーンはグリンカ夫人の情報には不明の部分も多いとしている[11]

歴史家Iurii Konstantinovich Begunovは、グリンカ(Iuliana)は、Zion Kahalからの抜粋をフランス人ジャーナリストから受け取り、Aleksei Mikhailovich Sukhotinへ渡し、F.P.StepanovからSipiagin大臣[28]へ、そしてメンシコフからニルスへ渡ったと考えた[11]

文化研究者のVadim Skuratovskiiは、グリンカ夫人は、有名な外交官で思想家であった父親の書物を元に陰謀論的に書き換えたものであり、グリンカ夫人は議定書の共著者の重要な一人だったとする[11]

Lev Aronov,Henryk Baran,and Dmitri Zubarevは、グリンカ夫人の1883年1月から4月にかけて書かれたアレクサンドル3世への書簡を発見した[11]

グリンカ夫人(Iustin'ia Dmitrievna Glinka)は、ロシア外交官Dmitrii Grigor'evich Glinkaの娘で、秘密警察情報員であり、ロシアから亡命した革命家たちに対する政治活動をパリで行った際には、警視総監Louis Andrieux(1840-1931)や、Nouvelle Revue 編集長のジュリエット・アダム(Juliette Adam)と連携した[11]
文書の由来

議定書は先行する評論や小説を元にしており、出典の多くが有名な大衆小説にあった[29]

まず、この文書はモーリス・ジョリー(フランス語版)著『マキャベリとモンテスキューの地獄での対話(フランス語版)』[30](仏語、1864年)との表現上の類似性が指摘されている。地獄対話はマキャベリの名を借りてナポレオン3世の非民主的政策と世界征服への欲望をあてこすったものである。シオン賢者の議定書は地獄対話の内容のマキャベリ(ナポレオン3世)の部分をユダヤ人に置き換え、大量の加筆を行ったものとされる。

また、議定書のある一章は、ドイツの小説家ヘルマン・ゲートシュ(ゲドシェ)(Hermann Goedsche,1815 ? 1878)が1868年に出版した幻想小説「ビアリッツ Biarritz」を元にしている[31][32][33]。ゲートシュの小説は、当時反ユダヤ主義記事の掲載を続けていたプロテスタントの『十字架新聞』に掲載された[32]


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