シオン賢者の議定書
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歴史家Iurii Konstantinovich Begunovは、グリンカ(Iuliana)は、Zion Kahalからの抜粋をフランス人ジャーナリストから受け取り、Aleksei Mikhailovich Sukhotinへ渡し、F.P.StepanovからSipiagin大臣[28]へ、そしてメンシコフからニルスへ渡ったと考えた[11]

文化研究者のVadim Skuratovskiiは、グリンカ夫人は、有名な外交官で思想家であった父親の書物を元に陰謀論的に書き換えたものであり、グリンカ夫人は議定書の共著者の重要な一人だったとする[11]

Lev Aronov,Henryk Baran,and Dmitri Zubarevは、グリンカ夫人の1883年1月から4月にかけて書かれたアレクサンドル3世への書簡を発見した[11]

グリンカ夫人(Iustin'ia Dmitrievna Glinka)は、ロシア外交官Dmitrii Grigor'evich Glinkaの娘で、秘密警察情報員であり、ロシアから亡命した革命家たちに対する政治活動をパリで行った際には、警視総監Louis Andrieux(1840-1931)や、Nouvelle Revue 編集長のジュリエット・アダム(Juliette Adam)と連携した[11]
文書の由来

議定書は先行する評論や小説を元にしており、出典の多くが有名な大衆小説にあった[29]

まず、この文書はモーリス・ジョリー(フランス語版)著『マキャベリとモンテスキューの地獄での対話(フランス語版)』[30](仏語、1864年)との表現上の類似性が指摘されている。地獄対話はマキャベリの名を借りてナポレオン3世の非民主的政策と世界征服への欲望をあてこすったものである。シオン賢者の議定書は地獄対話の内容のマキャベリ(ナポレオン3世)の部分をユダヤ人に置き換え、大量の加筆を行ったものとされる。

また、議定書のある一章は、ドイツの小説家ヘルマン・ゲートシュ(ゲドシェ)(Hermann Goedsche,1815 ? 1878)が1868年に出版した幻想小説「ビアリッツ Biarritz」を元にしている[31][32][33]。ゲートシュの小説は、当時反ユダヤ主義記事の掲載を続けていたプロテスタントの『十字架新聞』に掲載された[32]。この小説は1872年にロシア語に翻訳された。現在、大英博物館に最古のものとしてロシア語版のものが残っている。

また、1881年7月にフランスのカトリックの機関誌『同時代人』は、ユダヤ人は太古の昔より地上の支配権を持つことを目的にしていると報じたが、その典拠はゲートシュのこの小説であった[34]
文書の流布「反ユダヤ主義」を参照

第一次世界大戦中にロシア革命が起きると、国際的に反ユダヤ主義が強まっていった[35]。議定書も多くの国で翻訳され、流布していった。
ロシア

ロシア内戦(1917-1922)中、ロシア白軍総司令官のコルチャーク1918年7月のロマノフ家処刑直後に議定書に没頭し、1919年2月15日には「ロシアを破滅に追い込んでいるユダヤのごろつきどもを追い立てよ」と宣言し、ロシアの大地は反ユダヤ十字軍を必要としていると宣言した[36]
オカルト結社

議定書の普及には、近代神智学の信奉者などオカルティストたちが積極的に動いた。『シオン賢者の議定書』が作られた当時のロシア宮廷にはパピュスことジェラール・アンコース(フランス語版)等のオカルティストがコネクションを有していた[26]

議定書を最初にフランスからロシアに持ち込んだと疑われるユスティニア・グリンカは、神智学徒で、近代神智学の創始者ヘレナ・P・ブラヴァツキーとも親交があった[26][27]。神智学やルドルフ・シュタイナー人智学では、しばしば闇の勢力の暗躍が語られており、そうした土壌の上に議定書は普及し、多くのオカルト結社やその周辺で、闇の勢力とは「ユダヤ」であると言われるようになり、ユダヤ陰謀論が盛んになった[27]
イギリス1921年8月16日から18日にかけて英誌『タイムズ』は『シオン賢者の議定書』が偽書であると暴露した。

1920年イギリスでロシア語版を英訳し出版したヴィクター・マーズデン(英語版)(「モーニング・ポスト」紙ロシア担当記者)が急死したため、そのエピソードがこの本に対する神秘性を加えた。マーズデン記者はロシアで囚われた際にユダヤ人が拷問係であったし、ロシアの破壊者はユダヤ人だと証言し、『シオンの賢者の議定書』という証拠もあると述べた[35]

1920年、モーニングポスト紙編集者ハウエル・アーサー・グウィンが序文を書いた『世界の不穏の原因』でも「シオン賢者」と「ユダヤ禍」が主張された[37][38]

1920年4月、ロイド・ジョージ首相とボルシェビキとの交渉が実現し、レオニード・クラシンが非公式にロンドンに招待されると、タイムズは「ユダヤ禍」記事で『シオン賢者の議定書』を引き写して、ダビデの世界帝国を樹立しようとしている陰謀家との交渉として批判した[39][37]。タイムズ記事では『シオン議定書』が偽書であるならば、この恐ろしいまでの予言の才をいかに説明したらいいのか、イギリスがパックス・ゲルマニカ(ゲルマンの平和)を防いだのは、パックス・イウダーイカ(ユダヤの平和)のためだったのか、と書いた[37]

スペイクテイター紙は1920年5月15日に議定書は半狂乱のユダヤ人陰謀家が作者であるとして、ユダヤ人は見境を失った瞑想をするオリエントの民族であり、他のユダヤ人も秘密裏に議定書の見方を持つことはありえると報道した[37]。その後も同紙は7月17日に真のユダヤ禍とはユダヤによる世界一極支配の陰謀とは無関係であり、普通のユダヤ人が内閣に加わっていることが良き政府の原則に背馳するといったり、10月9日にはユダヤ人は危険因子で国際争乱の源泉であるとし、10月16日にはユダヤ人への市民権授与には慎重であるべきで「社会のペスト」であるユダヤ人陰謀家の醜い仮面を剥ぎ取ろうと呼びかけた[37]

議定書については1921年8月16日から18日にかけて英紙『タイムズ』がフィリップ・グレイヴス(Philip Graves)記者による「議定書の終焉」記事を掲載した[37]。報道の中で、コンスタンチノープルの記者グレーブスは表紙にJOLIと印刷された古本が議定書の元ネタだと暴露した。

『タイムズ』の編集部は大英博物館に保管されていた『マキャベリモンテスキューの地獄での対話』と本書とを比較して、その正体を明らかにした[40]

タイムズ紙は以後、『シオン賢者の議定書』を情報源として使用しなくなった[37]
フランス

第一次世界大戦でイギリスがパレスチナを占領すると、フランスのカトリック司祭エルネスト・ジュアン(Ernest Jouin)は『秘密結社国際評論(Revue internationale des societes secretes)』で『シオン議定書』を紹介し、パレスチナがフランスからイギリスの手に渡り、ユダヤ人の手に渡ろうとしていることは背信行為であると述べた[41]

1919年3月29日に『ドキュメンタシオン・カトリック』紙はユダヤ人は王国を再建しようとしているとし、ユダヤ教の政治的支配に対抗してキリスト教徒はイスラム教徒と連帯するべきだと主張した[42][41]


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