シエラレオネ
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1462年にはポルトガル人によって現在のシエラレオネ半島が『獅子の山』と名付けられ[5]、これがやがてこの地域全体をさす言葉となった。16世紀から19世紀前半にかけてこの地域ではたびたび奴隷狩りが行われ、欧米の拠点としてはイギリスの小規模な城塞が海岸部に点在する程度であった。
フリータウン

18世紀後半に入るとイギリスでは奴隷廃止運動が盛んになり、運動の指導者のひとりであるグランビル・シャープはアフリカに解放された奴隷の定住地を作ることを計画。白羽の矢が立てられたのが、シエラレオネ半島であった。1787年、彼は最初の移住者をシエラレオネに送り出した。現地人であるテムネ人(英語版)の王の一人トム王とその臣下の首長たちは友好的であり、シエラレオネ半島北岸の細長い土地をジョン・テーラー船長に売却し割譲した。移住者たちは半島北岸にあるフォーラー・ベイ付近に入植し、建設された街はグランビルタウンと呼ばれた。しかし、トム王の後継者ジミー王による攻撃がはじまり、またマラリアなどの病気により、多くの入植者たちが死に、最初の入植は失敗に終わった[6]。1791年にはグランビル・シャープの後継者として、奴隷貿易廃止促進協会のメンバーでもある、アレクサンダー・ファルコンブリッジの指導の下、グランビルタウンはクラインタウンと改名し再建設されるが、これも結局成功しなかった。1792年にはクラインタウンの土地の跡はフリータウンと名付けられ、再度、解放奴隷たちの拠点となる。植民地としてのシエラレオネは、この時点に始まる事となる。以後イギリスのほか、ジャマイカ及び他のイギリス領の西インド諸島や、アメリカ独立戦争において忠誠派(ロイヤリスト)として追われカナダノヴァ・スコシアへと逃れた解放奴隷(マルーン)達が入植した。しかしシエラレオネ半島は肥沃ではなく、近隣の部族やフランスの小艦隊からの攻撃なども重なって、入植者たちは苦しい状況にあった。
イギリス植民地1856年フリータウン

1808年には植民地は王室管理下へと移された。1807年イギリス議会奴隷貿易を違法とする法律を可決すると、1808年にフリータウンはイギリスの直轄植民地にされるとともに、奴隷貿易を取り締まる艦隊の基地となった[6]。艦隊によって自由を得た奴隷たちの多くはフリータウンへと残留し、植民地は徐々に拡大していった。また、この解放奴隷たちはフリータウンにて混血し、クリオと呼ばれる新しい民族となっていった[7]。植民地は1861年までに、地方の首長たちから土地の割譲や、色々な友好条約を通して領域を拡大し、シエラレオネ半島全域を領域とするようになった。

1827年にフリータウンでフォーラーベイ大学が開設され、クリオはシエラレオネのみならず他のイギリス植民地においても伝道師や教師として活躍し、19世紀にはこの地域の政治や貿易において中心的な存在になっていった[6]。一方、1880年代よりイギリスは内陸部に勢力を拡大し、1896年には正式に内陸地域がイギリス保護領となった[6]。シエラレオネ保護領と植民地は政治的には明確に区分されていた。1898年には保護領に導入された小屋税に反対して反乱が起きた[7]。20世紀に入るとクリオの商人は国外から進出してきたレバノン人などの外国商人との競争に敗れ、活動の場はフリータウンに限られるようになった。さらに植民地の官僚のヨーロッパ人化が進み、クリオは政治における主導権の多くを失った。

第一次世界大戦後にクリオ人医師のバンコーレ・ブライトとウォーレス・ジョンソンを指導者としてフリータウンで民族主義運動がはじまった。第二次世界大戦後、内陸部の保護領にも選挙権が与えられ、1950年に医師ミルトン・マルガイを党首として保護領の利益を代表するシエラレオネ人民党(SLPP)が結成された。1951年の選挙ではSLPPはブライトとジョンソンらのシエラレオネ植民地国民会議(NCCSL)を破り、1957年の選挙でもSLPPは大勝しマルガイはシエラレオネ初代首相となり[8]1960年にはマルガイはロンドンに代表団を派遣してエリザベス2世とイギリス植民地長官との会談でシエラレオネの完全独立を認めるよう要求した。
独立

1961年4月27日にイギリスがついにシエラレオネの独立を許可して認めた為、シエラレオネはイギリスの君主を元首としたイギリス連邦の一員として独立した。ミルトン・マルガイは引続いてシエラレオネの独立最初の首相となり、1964年に死亡するまで国民の各部族の融和など安定した国の基盤を築き首相を務めた[9]。後任として彼の政権下で財務大臣を務めていた弟のアルバート・マルガイが首相を引き継ぐが、兄と違い、彼は汚職や軍隊や政権などに自分の出身部族であるメンデ族を中心的に優遇するなど偏った政策をしようとした為多くの国民から批難が殺到した。またマルガイは1966年に共和制及び一党制の導入を主張したが反マルガイ派の野党などから彼の権力集中の独裁化に繋がると警戒され反発により失敗した。
クーデター

1967年の国民選挙ではアルバート・マルガイ政権の腐敗した汚職などの批判と反発などから、野党であった全人民会議(All-People’sCongress,APC)がマルガイ政権の与党シエラレオネ人民党(SLPP)に勝利し、第一党となったが、APCの議長であるシアカ・スティーブンスが首相に就く前に、マルガイ政権の同盟であるマルガイ派の軍の指導者であるデビッド・ランサナ准将が無血クーデターを起こし、スティーブンスは職を追われた。マルガイは選挙結果を却下し、暫定総督を宣言し、軍により戒厳令が敷かれ、軍の管理下に国家改革協議会がおかれたものの、全人民会議の支持派によってカウンタークーデターが起こり、マルガイは国外に逃亡し、1968年にはスティーブンスが政権へと復帰した[10]。しかし、やがてスティーブンス政権は独裁化していき、1971年に共和制を導入して大統領に就任した後、1978年にはシエラレオネは一党制となった[11]


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