シェイクスピア
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シェイクスピアは1613年に故郷ストラトフォードへ引退したと見られている[27]。時のイギリスは新興国のネーデルラント連邦共和国との熾烈な貿易競争のなかで形勢が不利になっていた。

シェイクスピアの生涯最後の数週間に起きた事件は、次女ジュディスに関わる醜聞であった。ジュディスの婚約者であった居酒屋経営者のトマス・クワイニーが地元の教会裁判所で「婚前交渉」の嫌疑で告発されたのである。マーガレット・ホイーラーという女性が私生児を産み、その父親がクワイニーであると主張してまもなく母子ともども死亡したのである。この一件でクワイニーの名誉は失墜し、シェイクスピアは自分の遺産のうちジュディスへ渡る分がクワイニーの不実な行為にさらされることのないよう遺言書を修正した。

1616年4月23日にシェイクスピアは52歳で没した。死因は腐ったニシンから伝染した感染症であるとされる。誕生日が4月23日であるという伝承が正しいならば、シェイクスピアの命日は誕生日と同じ日ということになる。
死後

シェイクスピアはアン・ハサウェイを生涯の妻とし、2人の娘、スザンナとジュディスを残した。息子のハムネットは1596年に夭折している。スザンナは医師のジョン・ホールと結婚し、2人の間に生まれた娘エリザベス・ホールがシェイクスピア家の最後の1人となった。今日、シェイクスピア直系の子孫は存在しない。しかし、シェイクスピアが名付け親になったウィリアム・ダヴェナント[注釈 4]の実父がシェイクスピアではないかという噂が囁かれたことがある。ダヴェナント自身もシェイクスピアの庶子を自称している。ダヴェナントにはチャールズ・ダヴェナント(1656年 - 1714年、妻の名はフランセス)とウィリアム・ダヴェナント(1657年 - 1681年)という2人の息子がおり、ダヴェナントがシェイクスピアの落胤であることが事実であれば、2人の息子は非公式ではあるもののシェイクスピアの孫で、スザンナやハムネット、ジュディスと血縁関係が生じ、シェイクスピアの血筋は少なくとも18世紀の初めまで存続したことになる。
埋葬ストラトフォードのホーリー・トリニティ教会(英語版)に建立されたシェイクスピアの墓碑

シェイクスピアはストラトフォード・アポン・エイヴォンにあるホーリー・トリニティ教会(英語版)の内陣に埋葬された。シェイクスピアが内陣に埋葬されるという栄誉を授けられたのは、劇作家としての名声によってではなく、440ポンドもの十分の一税を教会に納めていた高額納税者であったためである。シェイクスピアの墓所にもっとも近い壁の前に、おそらく家族によって設置されたと考えられる[28]シェイクスピアの記念碑には、シェイクスピアの執筆する姿をかたどった胸像が据えられている。毎年シェイクスピアの誕生日(とされる日)には、胸像の右手にもっている羽ペンが新しいものに取り替えられる。墓石に刻まれた墓碑銘はシェイクスピアが自ら書いたものと考えられている。

「Good friend, for Jesus' sake forbear,

To dig the dust enclosed here.
Blest be the man that spares these stones,
And cursed be he that moves my bones.」

シェイクスピアの未発表作品が副葬品として墓の中に眠っているという伝説があるが、確かめた者はいない。
家族

父方の祖父:リチャード・シェイクスピア(1490年 - 1561年2月10日)

母方の祖父:ロベルト・アーデン

父:ジョン・シェイクスピア(1531年 - 1601年9月7日)

母:メアリー・アーデン(1537年 - 1608年)


兄弟姉妹

ジョン・シェイクスピア(1558年)- 長兄

マーガレット・シェイクスピア(1562年 - 1563年) - 長姉

ギルバート・シェイクスピア(1566年10月13日 - 1612年2月3日) - 長弟

ジョーン・シェイクスピア(1569年4月15日 - 1646年11月4日) - 長妹

アン・シェイクスピア(1571年 - 1579年) - 次妹

リチャード・シェイクスピア(1574年 - 1613年) - 次弟

エドモンド・シェイクスピア(1580年 - 1607年12月31日) - 三弟



甥、姪 - 長妹ジョーンがウィリアム・ハートと結婚して、3男1女がおり、シェイクスピアからみて甥、姪にあたる。

ウィリアム(1600年 - 1639年)

メアリー(1603年 - 1607年)

トマス(1605年 - 1661年)

ミカエル(1608年 - 1618年)



妻と子女

アン・ハサウェイ(1555/1556年 - 1623年8月6日) - 妻

スザンナ・シェイクスピア(スザンナ・ホール、1583年5月26日 - 1649年7月11日) - 長女。医師のジョン・ホールと結婚し、エリザベス・ホールを儲ける。

ハムネット・シェイクスピア(1585年2月2日 - 1596年8月11日) - 長男。11歳で夭折。ジュディスとは双子。

ジュディス・シェイクスピア(ジュディス・クワイニー、1585年2月2日 - 1662年2月9日) - 次女。ハムネットは双子。居酒屋経営者のトマス・クワイニーと結婚し、3子(下記)を儲ける。




娘婿

ジョン・ホール(1575年 - 1635年11月25日) - 長女スザンナの夫。スザンナとの間にエリザベス・ホールを儲ける。

トマス・クワイニー(1589年2月26日 - 1662/1663年) - 次女ジュディスの夫。ジュディスとの間にシェイクスピア、リチャード、トマスの3子(下記)を儲ける。





エリザベス・ホール(エリザベス・ナッシュ、エリザベス・バーナード、1608年2月21日 - 1670年2月17日) - 長女スザンナとその夫ジョンの娘。

シェイクスピア・クワイニー(1616年11月23日 - 1617年5月8日) - 次女ジュディスとその夫トマスの長男。1歳になる前に夭折。

リチャード・クワイニー(1618年2月9日 - 1639年2月6日) - 次女ジュディスとその夫トマスの次男。20歳で死去。

トマス・クワイニー(1620年1月23日 - 1639年1月28日) - 次女ジュディスとその夫トマスの三男。 19歳で死去。



孫婿

トマス・ナッシュ(1593年7月20日 - 1647年4月4日) - エリザベスの最初の夫。

ジョン・バーナード(1604年 - 1674年) - エリザベスの2番目の夫。



曾孫

孫4人は子を成すことがなかったため、エリザベスの死でシェイクスピアの直系子孫は断絶している。また、前述の通り、ウィリアム・ダヴェナントを隠し子、ダヴェナントの2人の子(チャールズ、ウィリアム)を孫という噂を肯定したとしても、チャールズにはフランセスという妻がいたが子供は確認できず、ウィリアムは23?24年の短い生涯の間に妻帯して子供を儲けた形跡が見られないことからそれ以降の系譜が続いたかは不明で曾孫以下の存在は確認できないことになる。


シェイクスピア姓
精神学者でシェイクスピアファンの
ジークムント・フロイトは、イギリス人ではないような名前に疑念を抱き、チャンドス肖像画(英語版)を見てより疑念を深めた。フロイトはシェイクスピアをフランス系で、名前はフランス人姓「Jacques Pierre」が訛ったものとみている[29][30]
最初の全集の刊行

没後7年を経た1623年、国王一座の同僚であったジョン・ヘミングスとヘンリー・コンデルによってシェイクスピアの戯曲36編が集められ、最初の全集ファースト・フォリオが刊行された。
作品最初の全集ファースト・フォリオ1623年)に掲載された肖像画詳細は「シェイクスピアの戯曲」および「en:Shakespeare's plays」を参照


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