シェイクスピア
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シェイクスピアは国王一座で上演する戯曲の多くを執筆したり、劇団の株式の共同所有者として経営に関与したりするかたわら、俳優業も継続して『ハムレット』の先王の幽霊や、『お気に召すまま』のアダム、『ヘンリー五世』のコーラスなどを演じたといわれる[25][26]

シェイクスピアは1599年内にテムズ川を渡ってサザックへ転居したと見られる。1604年には家主の娘の仲人を務めた。この娘の結婚が原因で1612年に起きた裁判の記録にシェイクスピアの名前が登場する。この文書によると、1604年にシェイクスピアはユグノーの髪飾り職人クリストファー・マウントジョイの借家人となっていた。マウントジョイの見習いであったスティーヴン・ベロットがマウントジョイの娘との結婚を望み、持参金の委細について交渉してくれるようシェイクスピアに仲介を頼んだ。シェイクスピアの保証により2人は結ばれたが、8年経っても持参金が一部しか支払われなかったため、ベロットが義父に対して訴訟を起こしたのである。この裁判において証人としてシェイクスピアが召喚されたが、シェイクスピアは当時の状況に関してほとんど覚えていなかった。

法的問題や商取引についての様々な公文書によると、ロンドン在住中にシェイクスピアは大きな経済的成功を収め、ロンドンのブラックフライヤーズの不動産や、ストラトフォードで2番目に大きな邸宅ニュー・プレイスを購入するまでになっていたことが分かる。
晩年引退後のシェイクスピアの終の棲家となったストラトフォード・アポン・エイヴォンにあるニュー・プレイス

シェイクスピアは1613年に故郷ストラトフォードへ引退したと見られている[27]。時のイギリスは新興国のネーデルラント連邦共和国との熾烈な貿易競争のなかで形勢が不利になっていた。

シェイクスピアの生涯最後の数週間に起きた事件は、次女ジュディスに関わる醜聞であった。ジュディスの婚約者であった居酒屋経営者のトマス・クワイニーが地元の教会裁判所で「婚前交渉」の嫌疑で告発されたのである。マーガレット・ホイーラーという女性が私生児を産み、その父親がクワイニーであると主張してまもなく母子ともども死亡したのである。この一件でクワイニーの名誉は失墜し、シェイクスピアは自分の遺産のうちジュディスへ渡る分がクワイニーの不実な行為にさらされることのないよう遺言書を修正した。

1616年4月23日にシェイクスピアは52歳で没した。死因は腐ったニシンから伝染した感染症であるとされる。誕生日が4月23日であるという伝承が正しいならば、シェイクスピアの命日は誕生日と同じ日ということになる。
死後

シェイクスピアはアン・ハサウェイを生涯の妻とし、2人の娘、スザンナとジュディスを残した。息子のハムネットは1596年に夭折している。スザンナは医師のジョン・ホールと結婚し、2人の間に生まれた娘エリザベス・ホールがシェイクスピア家の最後の1人となった。今日、シェイクスピア直系の子孫は存在しない。しかし、シェイクスピアが名付け親になったウィリアム・ダヴェナント[注釈 4]の実父がシェイクスピアではないかという噂が囁かれたことがある。ダヴェナント自身もシェイクスピアの庶子を自称している。ダヴェナントにはチャールズ・ダヴェナント(1656年 - 1714年、妻の名はフランセス)とウィリアム・ダヴェナント(1657年 - 1681年)という2人の息子がおり、ダヴェナントがシェイクスピアの落胤であることが事実であれば、2人の息子は非公式ではあるもののシェイクスピアの孫で、スザンナやハムネット、ジュディスと血縁関係が生じ、シェイクスピアの血筋は少なくとも18世紀の初めまで存続したことになる。
埋葬ストラトフォードのホーリー・トリニティ教会(英語版)に建立されたシェイクスピアの墓碑

シェイクスピアはストラトフォード・アポン・エイヴォンにあるホーリー・トリニティ教会(英語版)の内陣に埋葬された。シェイクスピアが内陣に埋葬されるという栄誉を授けられたのは、劇作家としての名声によってではなく、440ポンドもの十分の一税を教会に納めていた高額納税者であったためである。シェイクスピアの墓所にもっとも近い壁の前に、おそらく家族によって設置されたと考えられる[28]シェイクスピアの記念碑には、シェイクスピアの執筆する姿をかたどった胸像が据えられている。毎年シェイクスピアの誕生日(とされる日)には、胸像の右手にもっている羽ペンが新しいものに取り替えられる。墓石に刻まれた墓碑銘はシェイクスピアが自ら書いたものと考えられている。

「Good friend, for Jesus' sake forbear,

To dig the dust enclosed here.
Blest be the man that spares these stones,
And cursed be he that moves my bones.」

シェイクスピアの未発表作品が副葬品として墓の中に眠っているという伝説があるが、確かめた者はいない。
家族

父方の祖父:リチャード・シェイクスピア(1490年 - 1561年2月10日)

母方の祖父:ロベルト・アーデン

父:ジョン・シェイクスピア(1531年 - 1601年9月7日)

母:メアリー・アーデン(1537年 - 1608年)


兄弟姉妹

ジョン・シェイクスピア(1558年)- 長兄

マーガレット・シェイクスピア(1562年 - 1563年) - 長姉

ギルバート・シェイクスピア(1566年10月13日 - 1612年2月3日) - 長弟

ジョーン・シェイクスピア(1569年4月15日 - 1646年11月4日) - 長妹

アン・シェイクスピア(1571年 - 1579年) - 次妹

リチャード・シェイクスピア(1574年 - 1613年) - 次弟

エドモンド・シェイクスピア(1580年 - 1607年12月31日) - 三弟



甥、姪 - 長妹ジョーンがウィリアム・ハートと結婚して、3男1女がおり、シェイクスピアからみて甥、姪にあたる。

ウィリアム(1600年 - 1639年)

メアリー(1603年 - 1607年)

トマス(1605年 - 1661年)

ミカエル(1608年 - 1618年)



妻と子女

アン・ハサウェイ(1555/1556年 - 1623年8月6日) - 妻

スザンナ・シェイクスピア(スザンナ・ホール、1583年5月26日 - 1649年7月11日) - 長女。医師のジョン・ホールと結婚し、エリザベス・ホールを儲ける。

ハムネット・シェイクスピア(1585年2月2日 - 1596年8月11日) - 長男。11歳で夭折。ジュディスとは双子。

ジュディス・シェイクスピア(ジュディス・クワイニー、1585年2月2日 - 1662年2月9日) - 次女。ハムネットは双子。居酒屋経営者のトマス・クワイニーと結婚し、3子(下記)を儲ける。




娘婿

ジョン・ホール(1575年 - 1635年11月25日) - 長女スザンナの夫。スザンナとの間にエリザベス・ホールを儲ける。

トマス・クワイニー(1589年2月26日 - 1662/1663年) - 次女ジュディスの夫。ジュディスとの間にシェイクスピア、リチャード、トマスの3子(下記)を儲ける。





エリザベス・ホール(エリザベス・ナッシュ、エリザベス・バーナード、1608年2月21日 - 1670年2月17日) - 長女スザンナとその夫ジョンの娘。


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