シェイクスピア
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1594年の終わりごろ、シェイクスピアは俳優兼劇作家であると同時に、宮内大臣一座(英語版)として知られる劇団の共同所有者ともなっており、同劇団の本拠地でもあった劇場グローブ座の共同株主にもなった。当時の他の劇団と同様、一座の名称はスポンサーであった貴族の名前から取られており、この劇団の場合には宮内大臣(英語版)の初代ハンズドン男爵ヘンリー・ケアリーがパトロンとなっていた。シェイクスピアの所属変更は同年の第5代ダービー伯(ストレンジ卿)急死でパトロンを失ったストレンジ卿一座がハンズドン男爵に引き取られ、宮内大臣一座として再出発したからであり、シェイクスピアは1593年に出版した物語詩『ヴィーナスとアドーニス』をダービー伯の友人だったサウサンプトン伯爵ヘンリー・リズリーに献呈、翌1594年にも『ルークリース凌辱』を献呈しサウサンプトン伯の信頼を獲得、新たなパトロンを手に入れた。『恋の骨折り損』もこの頃に作られたと言われ、オックスフォードで海軍大臣一座(英語版)のパトロンである海軍卿(英語版)のエフィンガムのハワード男爵チャールズ・ハワード、ペンブルック伯一座(英語版)のパトロンであるペンブルック伯ヘンリー・ハーバート(英語版)とサウサンプトン伯、ストレンジ卿が会った出来事を参考にした部分が多く見られる[20]

しかし、サウサンプトン伯との繋がりが災難をもたらしたこともある。1601年2月8日にサウサンプトン伯が友人の第2代エセックス伯ロバート・デヴァルーと共にエリザベス1世の側近ロバート・セシル(後の初代ソールズベリー伯)らを排除するクーデターを起こし、失敗して捕らえられたエセックス伯が25日に処刑された(共に捕らえられたサウサンプトン伯は後に赦免)。エセックス伯一味はシェイクスピアら宮内大臣一座に働きかけて金を支払い、クーデター前日の2月7日にグローブ座で『リチャード二世』を上演させた。エセックス伯の意図は国王が廃位される場面を上演させ民衆を扇動させようとした所にあったが、反乱が失敗するとシェイクスピアら宮内大臣一座はこの上演とサウサンプトン伯の関係で立場が危うくなり、政府の取り調べを受けたがお咎めは無かった[21]

1603年にエリザベス1世が死去してジェームズ1世が即位した際、この新国王が自ら庇護者となることを約束したため国王一座へと改称することになるほど、シェイクスピアの劇団の人気は高まっていた。シェイクスピアの著作からは、作中に登場するフレーズや語彙、演技についての言及に鑑みても、実際に俳優であったことが見て取れるが、その一方で劇作法についての専門的な方法論を欠いている[22]シェイクスピア家の紋章

高等教育を欠いてはいたものの、シェイクスピアは長らくジェントルマンの地位を求めていた。まだ裕福であったころ、シェイクスピアの父は紋章を取得するために紋章院へ嘆願をしており、もし受理されればこの紋章は息子であるシェイクスピアが受け継ぐことになるものであった。俳優のシェイクスピアには紋章を得る資格がなかったが[注釈 3]、ストラトフォードの役人であり妻の生まれもよかった父ジョン・シェイクスピアは充分に資格を備えていた。しかし一家の財政が傾いていたためになかなか望みを叶えることができなかったのである。1596年にふたたび申請をはじめ、シェイクスピア家は紋章を手にすることができた。おそらくシェイクスピア自身が経済的に大きな成功を収めていたためである。紋章に記された銘は“Non sanz droict”(フランス語で「権利なからざるべし」)であったが、これはおそらく銘を考案したシェイクスピアのある種の守勢や不安感を示している。社会的地位や名誉の回復といったテーマが彼の作品のプロットにおいて頻出するようになるが、シェイクスピアは自分の切望していたものを自嘲しているようである[23]

1596年にビショップスゲイトのセント・ヘレン教区へ転居。1598年にグローブ座で初演されたベン・ジョンソンの『十人十色(英語版)』では、出演者一覧の最上段にシェイクスピアの名前が記載されており、俳優としての活動も盛んであったことが見て取れる。また1598年ごろから、それまでは匿名のまま刊行されることが多かったシェイクスピアの四折判のタイトル・ページに著者名が記されるようになったが、シェイクスピアの名前がセールスポイントになるほどの人気を確立していた事が窺われる[24]

シェイクスピアは国王一座で上演する戯曲の多くを執筆したり、劇団の株式の共同所有者として経営に関与したりするかたわら、俳優業も継続して『ハムレット』の先王の幽霊や、『お気に召すまま』のアダム、『ヘンリー五世』のコーラスなどを演じたといわれる[25][26]

シェイクスピアは1599年内にテムズ川を渡ってサザックへ転居したと見られる。1604年には家主の娘の仲人を務めた。この娘の結婚が原因で1612年に起きた裁判の記録にシェイクスピアの名前が登場する。この文書によると、1604年にシェイクスピアはユグノーの髪飾り職人クリストファー・マウントジョイの借家人となっていた。マウントジョイの見習いであったスティーヴン・ベロットがマウントジョイの娘との結婚を望み、持参金の委細について交渉してくれるようシェイクスピアに仲介を頼んだ。シェイクスピアの保証により2人は結ばれたが、8年経っても持参金が一部しか支払われなかったため、ベロットが義父に対して訴訟を起こしたのである。この裁判において証人としてシェイクスピアが召喚されたが、シェイクスピアは当時の状況に関してほとんど覚えていなかった。

法的問題や商取引についての様々な公文書によると、ロンドン在住中にシェイクスピアは大きな経済的成功を収め、ロンドンのブラックフライヤーズの不動産や、ストラトフォードで2番目に大きな邸宅ニュー・プレイスを購入するまでになっていたことが分かる。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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