シェイクスピア外典
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シェイクスピアの作品として1608年に出版された。これを真実と考える読者は少数にとどまり、文体から鑑みてトマス・ミドルトンが真の作者であるとみなされている。
エドワード三世 (Edward III)
1596年に匿名で出版され、1656年に刊行された書店のカタログではじめてシェイクスピア作と記された[8]。大半はきわめて凡庸ながらも、部分的には作者の天賦の才能を示すようなくだりも見られるため、シェイクスピアの手が加わっていると考える学者も多い。1996年イェール大学出版局は大手の出版社としてははじめてこの作品をシェイクスピアの名前で刊行した。その後まもなく、ロイヤル・シェイクスピア・カンパニーがこの戯曲を上演した。アメリカでは2001年にカーメル・シェイクスピア・フェスティヴァルではじめて本格的に上演された。この作品は駆け出しであったころのシェイクスピアを含む数人の作家集団による共作であるということで学者のあいだでも意見が一致しているが、誰がどの部分を書いたのかについては議論の余地が残されている。オックスフォード版全集第二版(2005年)にもこの作品は収録されているが、作者名は「シェイクスピア他」とされている。
ジョン王の乱世 (The Troublesome Reign of King John)
1591年の初版本では著者不明だが、1611年の第2版では「W. Sh.」、1612年の第3版では「W. Shakespeare.」とシェイクスピアの名前が付されている。20世紀以降これをシェイクスピアの作品と考える学者はきわめて少数になり、クリストファー・マーロウロバート・グリーン、トマス・ロッジ(Thomas Lodge)、ジョージ・ピール(George Peele)らのいずれかが真の作者であろうということで合意している。しかし、シェイクスピアの『ジョン王』が本作を種本として書かれたものであるのか、逆に本作が『ジョン王』を模倣・改作したものであるのかについては見解が分かれている。
ジャジャ馬ナラシ (The Taming of a Shrew)
この作品(シェイクスピアの『じゃじゃ馬ならし(The Taming of the Shrew)』と区別するため、日本語ではカタカナで表記するのが通例となっている)は1594年に出版された作者不詳の作品である。シェイクスピアの作品であることを謳っているわけではないが、登場人物やストーリーは『じゃじゃ馬』と酷似している。『じゃじゃ馬』は1594年に上演されているので執筆は1593年ごろと推定されているが、『ジャジャ馬』の推定執筆年代もほぼ同時期であるうえ、『じゃじゃ馬』の初版刊行年は1623年(ファースト・フォリオ)まで下るため、両者の前後関係が明らかとなっていない。一方が他方を下敷きにして書かれた可能性の他、同じ筋立てをもつ第3の作品がかつて存在し、両者ともこれを材源としながら独立して書かれたものであるという可能性なども指摘されている。
「チャールズ2世文庫」の戯曲
チャールズ2世の書庫に、匿名で刊行された3冊の四折判を何者かが1つに束ねて「シェイクスピア 第1巻」という標識をつけて分類しておいたものがある。このため、束ねられた3作が17世紀当時にはシェイクスピアのものとみなされていたという可能性が示唆されているが、これを支持する学者は少ない。
フェア・エム』(Fair Em)
1591年に出版された。本当の作者は不明だが、ロバート・ウィルソン(Robert Wilson)とする説がある。
ムシドーラス (Mucedorus)
非常に人気のある戯曲であったため、本文に明らかに不自然な点があるにもかかわらず、1598年の初版以降多くの版を重ねた。国王一座の作品であるため、シェイクスピアが執筆ないし改訂に寄与した可能性があるが、本当の作者が誰であるかは謎に包まれている(ロバート・グリーン(Robert Greene)説が提案されてはいる)。
エドモントンの陽気な悪魔 (The Merry Devil of Edmonton)
1608年に初版刊行。この作品も国王一座の作品であり、シェイクスピアが寄与した可能性があるが、その文体はシェイクスピアとは似ても似つかないものである。
17世紀以降の外典

同時代に匿名で発表された戯曲で、後年になってからシェイクスピアのものではないかという学説が唱えられることとなった作品もいくつか存在する。これらの説はいずれも根拠に乏しく、眉唾物であることには注意が必要である。シェイクスピアの失われた傑作を発見するということはシェイクスピア愛好家にとっては見果てぬ夢であるために提唱された説だが、こうした新説の多くが「この作品には“シェイクスピアの文体”が現れている」と主張しており、シェイクスピアの文体とはいかなるものであるかという議論の余地のある見解をもっぱらその根拠としているためである。それにもかかわらず、これらの異説の中にはそれなりの説得力があったため主流派の研究者にも(控え目ながら)受け入れられたものもある。
フェヴァーシャムのアーデン (Arden of Faversham)
この戯曲は1592年に匿名で出版され、1770年に再刊されたさいにシェイクスピアの名が冠された。しかし、その文体や主題はシェイクスピアの正典とはかけはなれているため、この見解を支持する学者が極めて少ない。一般にはトマス・キッド(Thomas Kyd)が本当の作者と解されているが、それ以外の人物が提案されることもある。
エドマンド剛勇王 (Edmund Ironside)
この作品も作者不詳の戯曲である。エリック・サムズ(Eric Sams)やE・B・エヴァリット(E. B. Everitt)のようにこれをシェイクスピアの作品とする者もいるが、やはり支持するシェイクスピア研究者は少ない。
サー・トマス・モア (Sir Thomas More)
1590年代に書かれたのち10年ほどたってから加筆修正がなされたと推測されているが、当時は単行本化されず手稿のまま残された戯曲である(正式に刊行されたのは1844年)。この作品もまたシェイクスピアのオリジナル作品ではなく、おそらくアンソニー・マンデイの作品であろうという考えで大方の研究者は合意しているが、極めて注目に値する外典であり、オックスフォード版全集(2005年)もマンデイ作としながら収録している。というのも、この作品は数次にわたる加筆がなされているが、加筆者の一人がシェイクスピアである可能性が指摘されており、これが証明されると、大英図書館所蔵のこの手稿は地球上に存在しないものと考えられている「シェイクスピアの自筆原稿」を含むことになるためである。手稿には検閲官を除いて6人の筆跡があり、それぞれS、A、B、C、D、Eの名がつけられ、以下の作家によるものと推定されている[9]

S:アンソニー・マンデイ(Anthony Munday)。オリジナルの作者。

A:ヘンリー・チェトル(Henry Chettle)。最初の改稿を加えた。

B:トマス・ヘイウッド(Thomas Heywood)。

C:筆耕の専門家(正体不明)。

D:シェイクスピア。

E:トマス・デッカー(Thomas Dekker)。
筆跡Dは3ページ分にわたっており、シェイクスピア自筆の文字として唯一現存する法律文書への署名と比較して見られる類似から、この部分をシェイクスピアによって書かれたものとみなす学者は少なくない。しかし、この作品の著作権がシェイクスピアの劇団に帰属するものでなかった事実などから反論する学者も多い。
失われた戯曲ミアズの『知恵の宝庫』の一節。シェイクスピアの喜劇を列挙した中に、"Love labours wonne"の題が見える
恋の骨折り甲斐 (Love's Labour's Won)


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