ザ・ローリング・ストーンズ
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彼らはブライアンの記憶の中で何千匹もの蝶を放った[16]。冒頭ではジョニー・ウィンターの「アイム・ユアーズ・アンド・アイム・ハーズ」が演奏された[96]

また、次回作の『レット・イット・ブリード』(1969年12月)からの未発表曲「ミッドナイト・ランブラー」「むなしき愛(Love in Vain)」および『メインストリートのならず者』(1972年5月)からの「ギブ・ミー・ア・ドリンク」も演奏された。このコンサートはリリースされたばかりの「ホンキー・トンク・ウィメン」の初演でもあった。ブラックヒル・エンタープライズのステージ・マネージャー、サム・カトラーは彼らを「世界最大のロックンロール・バンド[97][96]」として紹介した。カトラーはその後ストーンズのロードマネージャーとなり、1969年のアメリカツアーでは前述の紹介を繰り返した[98][99]

レット・イット・ブリード』(イギリス1位;アメリカ3位)は12月に発売された。60年代の最後のアルバムである本作には「ギミー・シェルター」が収録された。この曲では女性ヴォーカリストとしてメリー・クレイトンリトル・フィートのメンバーであるサム・クレイトンの姉)が起用され、有名なソロ部分を歌っている[100]

その他には「無情の世界(You Can't Always Get What You Want)」(ロンドン・バッハ合唱団はコーラスで参加したが、他の収録曲の内容から「恐れ」たためクレジットの削除を要求した。しかしその後この要求を撤回した)、「ミッドナイト・ランブラー」、ロバート・ジョンソンのカバーである「むなしき愛」が含まれた。ブライアンとテイラーはそれぞれ2曲に参加している。

ストーンズはアメリカツアーの直後、サンフランシスコから東に約50マイル離れたオルタモント・スピードウェイで行われたオルタモント・フリーコンサートに出演。この公演はストーンズからのクリスマスプレゼントとして入場無料で企画されたものであったが、20万人から50万人の観客が殺到したこと[101]に加え設営の準備不足から大混乱に陥った。警備員として雇われた暴走族ヘルズ・エンジェルスが、武器を所持していたとして観客の黒人青年メレディス・ハンターを刺殺するという、いわゆる「オルタモントの悲劇」も起こった[102]。ツアーの一部とオルタモント・コンサートの様子はメイスルズ兄弟の手によって『ギミー・シェルター』に収められた。また、海賊版が広く出回るようになったため(本ツアーの様子は「Live'r Than You'll Ever Be」として発売された)、その対応として『ゲット・ヤー・ヤ・ヤズ・アウト(イギリス1位;アメリカ6位)』が1970年にリリースされた。評論家のレスター・バングスは史上最高のライブアルバムと評している[103]

この年の大晦日には60年代のヒット曲を特集したBBC製作の番組「Pop Go The Sixties」に出演し、ストーンズは「ギミー・シェルター」を演奏している。
1970?1974ミック・テイラー、1972年

1970年、バンドはアラン・クレインおよびデッカ・レコードとの契約を終了した。クレインとの契約紛争の間に、バンドは自らのレーベル、「ローリング・ストーンズ・レコード」 (Promotone BV) を設立した。同レーベルからの第1弾作品として『スティッキー・フィンガーズ』(イギリス1位;アメリカ1位)を1971年3月に発売した。アルバムジャケットはアンディ・ウォーホルがデザインした[104]。同作には「ブラウン・シュガー」「ワイルド・ホース」が収められたが、これらは1969年のアメリカツアー中にアラバマ州マッスル・ショールズ・サウンド・スタジオで録音されたものであった。アルバムはブルースの影響を強く受けた前2作の路線を引き継いでいた。その特徴として「ルーズで、今にも崩れそうな雰囲気[105]」を持ったアルバムであり、また、テイラーが完全参加した初のアルバムでもあった。ストーンズのデッカでの作品権利はクレインのアブコ・レコードが所有している。

『スティッキー・フィンガーズ』の発売後、金融面での勧告を受け、高額な累進課税に辟易していたジャガーとリチャーズ、ワイマンの3人はフランス南部へ移住する。バンドは移住直前にイギリスで「フェアウェル」ツアーを行った。リチャーズはヴィルフランシュ=シュル=メールに家を借り、メンバーや友人達と生活した。バンドはモービル・ユニットを使い、地下室で録音を行った。その音源は最終的にロサンゼルスのサンセット・スタジオで編集され、2枚組アルバム(CDでは1枚)『メイン・ストリートのならず者』(イギリス1位;アメリカ1位)として1972年5月に発売された。評論家ロバート・クリストゴーはこのアルバムをA+と評価し[106]、レスター・バングズはこのアルバムに低評価を与えたが、数ヶ月の内にその評価を一転させ、『ならず者』はストーンズの最高傑作の一つであると認めている[107]。アルバム発表後、3年ぶりの全米ツアーを行った。その頃に撮影された映画『コックサッカー・ブルース』(未公開)と『レディース・アンド・ジェントルメン(英語版)』(1974年)はツアーのドキュメンタリーであり、テリー・サザーンも出演している。

1972年11月、バンドはジャマイカキングストンでセッションを始める。『山羊の頭のスープ(Goats Head Soup)』(イギリス1位;アメリカ1位)は1973年に発売された。シングル「悲しみのアンジー(Angie)」は世界的なヒットとなり商業的には成功したが、生ぬるく容認された最初のアルバムであった[108]。本作のセッションでは数多くのアウトテイクが生じ、例えば「友を待つ(Waiting on a Friend)」の初期版も録音されていた。同曲は8年後に『刺青の男』で発表された。ビル・ワイマン、1975年

録音作業は薬物に関する別の法廷闘争で中断された。フランス滞在当時の件でリチャーズの逮捕令状も発行されたため、他のメンバーは証言のためフランスに戻らなければならなかった[109]。これと平行してジャガーの薬物に関する裁判(1967年および70年[110])が行われ、73年初めに予定されていたパシフィック・ツアーの計画は混乱した。日本公演は前年に計画されていたが、メンバーの麻薬所持による逮捕歴や、ビートルズ来日の時のような混乱を理由に入国許可が下りなかったため、入場券が完売していたにもかかわらず公演は直前に中止された。その後、1990年の初来日までストーンズの公演は実現しなかった。リチャーズは6月にイギリスで逮捕された[111]。その後3年ぶりのヨーロッパツアーはフランスを迂回して、9月から10月にかけて行われた。

バンドはミュンヘンのミュージックランド・スタジオで次回作の録音を行う。アルバム『イッツ・オンリー・ロックンロール』(イギリス2位;アメリカ1位)は1974年にリリースされたが、ジミー・ミラーは麻薬の問題もありプロデューサーを降りていた。代わってミックとキースが「グリマー・ツインズ」としてプロデュースを行った。


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