ザ・ローリング・ストーンズ
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バンドはニューヨークで「エド・サリヴァン・ショー」に出演、「夜をぶっとばせ」を演奏したが、歌詞を"let's spend some time together"に変えるよう要請された[16][70]

1967年の前半、ジャガーとリチャーズ、ジョーンズは気晴らしで始めた麻薬に対して「ニュース・オブ・ザ・ワールド」紙が「Pop Stars and Drugs: Facts That Will Shock You」と題した3部構成の記事を発表した後、当局による摘発を受ける。記事ではザ・フーピート・タウンゼントクリームジンジャー・ベイカーらが参加し、ムーディー・ブルースが主催したLSDパーティについて述べ、トップスター達が薬物を使用していることを暴露した。最初の記事ではドノヴァンが標的にされ(すぐ後に摘発され罰金刑を受ける)、第2回(2月5日発行)でストーンズが標的にされた[71]

情報提供者はロンドンの高級クラブ、ブレーズで一晩を過ごしたが、そこでストーンズのメンバーは数個のベンゼドリンの錠剤を所持し、ハシシのかけらを示し、彼の住居に仲間を誘ってそれを吸ったと証言した。記事ではこれはジャガーのことであるとしたが、これは間違いであったとされた。事実提供者はこれはジョーンズのことであるとした。記事が発表された夜、ジャガーはエイモン・アンドリュースのトークショーに出演し、同紙を名誉毀損で訴えると発表した[71]

1週間後の2月12日、サセックス警察はリチャーズの運転手からの内通を受けて[72]、レッドランズのリチャーズの自宅で行われていたパーティを捜査した。逮捕者は出なかったものの、警察は麻薬容疑の証拠品を押収、後にジャガーとリチャーズおよび友人の画商ロバート・フレーザーが告発された。リチャーズは2003年に「レッドランズで警察に捕まったとき、俺たちはこれが全体の異なったボールゲームであり、楽しみが止まったんだと突然分かったのさ。その時までそれは、まるでロンドンが自分が欲しいときにできた美しい空間に存在しているかのようだったんだ。[73]」警察の捜査責任者は後に加えた。「私がそれを聞いたとき、彼は2度と同じように歩かなかった。[72]

警察の捜査結果を待っている間の1967年3月、ジャガー、リチャーズ、ジョーンズは、マリアンヌ・フェイスフル、ジョーンズの交際相手のアニタ・パレンバーグなどの友人と一緒にモロッコへの短期旅行を行った。この旅行の間にジョーンズとパレンバーグの関係は悪化し、彼女はリチャーズと共にモロッコを離れた[74]。リチャーズは後に「そいつは俺とブライアンとの棺の最後の釘だった。奴は俺を決して許さないだろうし、俺は奴を責める気は無いが、最悪の出来事が起こった。[75]」と語っている。リチャーズとパレンバーグはその後12年間を共に過ごした。このようにメンバー間の関係は複雑だったにもかかわらず、ストーンズは1967年3月から4月にかけてヨーロッパツアーを行った。このツアーでは、ポーランドギリシャイタリアでの初の公演も含まれた[76]

1967年5月10日、ジャガー、リチャーズとフレーザーはレッドランドでの一件に関連して逮捕される。同日ジョーンズの自宅が警察によって捜査され、大麻所持の容疑で彼も逮捕された[16]。メンバー5人の内3人が麻薬容疑で逮捕され、ジャガーとリチャーズは6月末に起訴された。6月29日、ジャガーはアンフェタミン錠剤4錠の所持容疑で3ヶ月の禁固刑を宣告された。またリチャーズは自宅の敷地内で大麻の喫煙を許したことで懲役1年の有罪判決を受けた[77][78]。ジャガーとリチャーズはその時点で投獄されたが、翌日には上訴を保留して保釈された[79]タイムズ紙は「牛刀を以て鶏を割くのは誰だ? -Who breaks a butterfly on a wheel?-」と題したウィリアム・リーズ=モッグによる擁護記事を掲載した。記事はジャガーが「純粋に匿名の若者」よりもマイナーな最初の犯罪ではるかに厳しい扱いを受けていたことを指摘している[80]

上告の判決を待っている間、バンドはファンが示す忠誠心への感謝の気持ちとして、ニューシングル「この世界に愛を(We Love You)」を録音した。それは刑務所のドアが閉まる音で始まり、プロモーションフィルムにはオスカー・ワイルドの裁判の暗示が含まれていた[81]。7月31日に控訴裁判所はリチャーズの判決を覆し、ジャガーの判決は条件付き釈放に至った[82]。ジョーンズの裁判は1967年11月に行われた。最初の求刑を控訴した後の12月にジョーンズは1000ポンドの罰金を科せられ、3年間の保護観察と専門的な治療を受けるよう命じられた[83]

1967年12月、ビートルズの『サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド』発売直後に『サタニック・マジェスティーズ』(イギリス3位;アメリカ2位)が発売された[16][84]。『サタニック・マジェスティーズ』はジャガー、リチャーズ、ジョーンズが訴訟問題を抱えるという難しい状況の下で制作された。バンドはこのセッション中にプロデューサーのオールダムと袂を分かった。この分裂は少なくとも公的には友好的であったが[85]、ジャガーは2003年に「アンドリューが去った理由は、彼は俺たちが集中していないと考え、俺たちは幼稚であると思ったからだ。本当に最悪な瞬間だった。そして俺はアンドリューにとっても最悪な瞬間だったろうと思ったよ。そこには気を散らすようなことがたくさんあって、その時点で集中させる必要があった。それはアンドリューの仕事だった」と語っている[16]

この結果、『サタニック・マジェスティーズ』はストーンズが自らプロデュースした最初のアルバムとなった。そのサイケデリックなサウンドはカバーアートで補完され、マイケル・クーパー(英語版)による3D写真が貼り付けられた。クーパーは『サージェント・ペパー』のカバー写真も担当していた。ワイマンの「イン・アナザー・ランド」はシングルカットもされたが、これはジャガーがリードを歌わなかった初の曲となった[86]キース・リチャーズ、1972年

バンドは1968年前半の数ヶ月間、次のアルバムの素材に取り組んだ。このセッションから5月にシングルとして「ジャンピン・ジャック・フラッシュ」が発売された。この曲とアルバム『ベガーズ・バンケット』(イギリス3位;アメリカ5位)は、カントリーミュージックとブルースに影響された曲を網羅し、バンドの音楽的起源への回帰を示した。本作からバンドはプロデューサーのジミー・ミラーを迎えた。本作には「ストリート・ファイティング・マン」(1968年5月の政治的な騒乱に影響を受けた)と「悪魔を憐れむ歌(Sympathy for the Devil)」も収められた[87][88]。「悪魔を憐れむ歌」に対しては、歌詞がを冒涜しているとして宗教団体からの抗議が起こり、レコードが大量に燃やされるという事件があった。


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