ザ・ローリング・ストーンズ
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ストーンズは1970年代前半からの人気を維持していたが、評論家達はバンドの勢いが衰えたと言い、またレコードの売り上げも期待外れになった[18]。1970年代後半にパンク・ロックが生じると、その支持者はストーンズを年老いた金持ちの音楽であり[16]、停滞した無意味でな音楽と批判した[124]。これは1978年になると一変した。アルバム『女たち』(イギリス2位; アメリカ1位)が発売され、「ミス・ユー」「ファーラウェイ・アイズ」「ビースト・オブ・バーデン」「シャッタード」がシングルカットされた。これらはパンク・ムーブメントでの批判に対する返答とされ、大半がテンポの速い単純なギタードライヴのロックンロールであった[124]。アルバムの成功は若年層の人気回復に貢献した。アルバム発表と同時に全米ツアーが始まり、バンドは宣伝のため「サタデー・ナイト・ライブ」に出演した。バンドは翌年のヨーロッパツアーは行わず、1967年以来3年ごとに行っていたツアーの習慣は破られた。

1979年4月、裁判所命令に従ってチャリティ公演をオシャワ・ホールで開く。ニュー・バーバリアンズはよくリチャーズがリーダーだと誤解されているが、実際はウッドである。これはメディアがこぞってリチャーズに注目したためと思われる。バーバリアンズは、5月いっぱいまで全米ツアーを行った。メンバーはウッド(ヴォーカル&ギター)、リチャーズ(ギター&ヴォーカル)、イアン・マクレガン(キーボード&ピアノ)、スタンリー・クラーク(ベース)、ジョセフ・モデリステ(ドラムス)、ボビー・キーズ(サックス)。このツアーの模様は、ウッドが設立したレコード会社よりライヴ・アルバム(ロサンゼルス公演のもの)として、2006年になってようやく日の目を見た。またウッドは、来日公演も検討していたという。

ストーンズは79年、80年ごろには明確にスランプに陥っていたが、『女たち(Some Girls)』の成功に続いて、ストーンズは1980年中頃に『エモーショナル・レスキュー』(イギリス1位; アメリカ1位)を発表した[125]が、このアルバムの録音は、ジャガーとリチャーズの関係が悪化したことと、音楽的スランプのため、混乱に陥ったとされている[125]。何度も逮捕されたにもかかわらず、リチャーズは未だにヘロインを使用していたとイアン・マクレガンは語った[126]。リチャーズはまたアルバムのプロモーションとして80年の夏か秋にツアーを行いたがったが、ジャガーはこれを拒否した[125]。『エモーショナル・レスキュー』はアメリカとヨーロッパで共に1位となり、シングル「エモーショナル・レスキュー」はアメリカで3位となった[125]

1981年初めに再結集し、その年に全米ツアーの開催を決定したバンドは、同年前半の僅かな時間でアルバムを作成し、ツアーのリハーサルを行った。『刺青の男』(イギリス2位; アメリカ1位)は8月31日に発売され、このアルバムより先行シングルで、ジャガーに「80年代の代表曲」といわしめた「スタート・ミー・アップ」が発売され、アメリカで2位、ビルボードのその年のチャートでは22位を記録した。2つの曲、「友を待つ」(アメリカ13位)「トップス」では元メンバーのテイラーがギターを演奏した。一方「奴隷(Slave)」と「友を待つ」ではソニー・ロリンズがサックスを演奏した。また、「ハング・ファイヤー」もビルボードのチャートで20位を記録した。1970年代のツアーに比べ破格の規模となった3年ぶりの全米ツアーは、9月25日から12月19日まで行われた。ツアーそのものは非常に精力的で、それまでと比べると(麻薬の影響もあっただろうが)かなり新鮮味のあるツアーとなっていた。同ツアーは同年最高額の売り上げに達し、またいくつかの公演は録音された。その模様は翌年にライヴ・アルバム『スティル・ライフ』(イギリス4位; アメリカ5位)として発表された。また、1983年にはハル・アシュビーによって映画『レッツ・スペンド・ザ・ナイト・トゥゲザー』として公開された。この映画にはアリゾナ州テンピのサン・デヴィル・スタジアム、ニュージャージー州メドウランズのブレンダン・バーン・アリーナでの公演が収録された。

1982年中頃、バンド結成20周年を記念するため、6年振りとなるヨーロッパ・ツアーを開始。前年の全米ツアーを踏襲した物であった。このツアーで、元オールマン・ブラザーズ・バンドチャック・リーヴェルがサポート・メンバーとして加わる。このヨーロッパ・ツアーを最後に、ストーンズは1989年までライヴ活動を休止することとなる。年末までにバンドはCBSと4作のアルバム制作を2,800万ドルで契約した。
1983?1991ストーンズ、1972年

アトランティックとの契約を終える前の1983年後半に、ストーンズは『アンダーカヴァー』(イギリス3位; アメリカ4位)を発売した。好意的なレビューとタイトルトラックのトップ10入りにもかかわらず、アルバムの売り上げは期待に外れ、サポートのツアーも行われなかった。新たなレーベル、CBSレコードがアトランティックの旧譜を引き継いだ。

このアルバムのセッションの頃から徐々にメンバー内の人間関係が悪化(81?82年のツアー中にもそれはジャガーとリチャーズとの間に現れ始めているが)し始めた。ジャガーはCBSとソロ契約を結び、最初のソロアルバムのために1984年の大半を費やすこととなった。また、彼はストーンズの枠組みの中で無意味にされると感じていたと述べている[127]。リチャーズはジャガーの行動に対して驚きを感じていた。1985年までにジャガーが個人的な録音作業に多くの時間を費やす一方で、ストーンズの1986年のアルバム『ダーティ・ワーク』(イギリス4位; アメリカ4位)にはリチャーズが殆どの楽曲を提供し、また以前のアルバムよりウッドが多くの貢献をしていた。リチャーズが作業を主導したのに対しジャガーは休みがちであった[128]

1985年6月、ジャガーはデヴィッド・ボウイと共に「ダンシング・イン・ザ・ストリート」を録音、プロモーションビデオを撮影した。これはライヴエイドのチャリティ・ムーブメントの一環として行われた物であった[129]。これはジャガーの最初のソロ・パフォーマンスの一つで、同シングルはイギリスで1位、アメリカで7位を獲得した[130][131]1985年12月、バンドの共同設立者でありキーボードを担当していたスチュワートが心臓発作により死去した。47歳であった。バンドは1986年2月、グラミー賞、ライフタイム・アチーブメント賞を受賞する2日前にロンドンの100クラブで非公開の追悼公演を行った[40]

ジャガーのソロ活動、ワッツの酒や薬物依存で人間関係が悪化する中、リチャーズが制作を主導した『ダーティ・ワーク』は1986年3月に発売された。同作はアメリカでのトップ5ヒットとなった「ハーレム・シャッフル」が収録されていたにもかかわらず賛否両論の評価を受けた。また、前年に死去したスチュワートの短いピアノが最後に収録されている。リチャーズとの関係が悪化していたジャガーはアルバム宣伝のためのツアーを拒否し、代わりにストーンズの楽曲を含んだ自身のソロツアーを行った[132][133]。リチャーズはこの期間のジャガーとの関係を「第三次世界大戦」[134]と呼んだ。バンド内の破綻した人間関係により、ストーンズはほぼ解散状態であった[132]。ジャガーのソロ『シーズ・ザ・ボス』(1985年、イギリス6位; アメリカ13位)と『プリミティヴ・クール』(1987年、イギリス26位; アメリカ41位)はある程度の成功を得た。


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