この当時の空気を伝えるのが、彼らのファーストアルバムにしてライブ盤の『ファイヴ・ライヴ・ヤードバーズ』である。メンバーは全員ダーク・スーツ。そしてスローなブルースのカバーをハイテンポかつ大音量で、そして1曲を30分近くかけて演奏するという独特なスタイルであった。
また、アメリカのブルース・マン、サニー・ボーイ・ウィリアムソンのライブの伴奏も務め、アルバムも発売された。
ライブでは人気のあった彼らだが、発表するシングルはブルースのカバー曲がほとんどで、しかも彼らのスタジオセッションはライブよりも大人しい音になってしまうのも相まって(ファーストアルバムがライブ盤となった理由もそこにあったようだ)、ヒットに恵まれなかった。やがて、ジョルジオ・ゴメルスキーとメンバーはヒットを渇望し、チェンバロをイントロに導入したポップ志向の曲「フォー・ユア・ラヴ
(英語版)」[注 5]を録音した。しかし、より純粋なブルースを志向していたクラプトンはそんな彼らと対立し、ブギ風のパートを渋々弾いてはいたが、それ以外はスタジオのベンチでふて寝をしていたという。それをきっかけにクラプトンはバンドの脱退を決意する。だが皮肉にも「フォー・ユア・ラヴ」は英米でヒットした(全英3位・全米6位)。強力なギタリストを失った彼らは、セッション・ギタリストとして名を馳せていたジミー・ペイジに声をかけた。しかしペイジは学友だったクラプトンを気遣うのとセッションの仕事が忙しいのとで勧誘を断わって、代わりに『幼馴染み』のジェフ・ベック[注 6]を推薦した。
ベックは即参加。彼はポップな感性や斬新なギター奏法も持ち合わせていたので、バンドとは利害が一致した。ファズを効果的に使用したポップソング「ハートせつなく
(英語版)」を皮切りに、「いたずらっ娘(英語版)」、「トレイン・ケプト・ア・ローリン(英語版)」[注 7]を発表した。しかし、マネージャーのゴメルスキーとビジネス絡みで不仲になり、バンドはサイモン・ネイピア=ベル(英語版)を新しいマネージャーに迎えた。アルバム『ロジャー・ジ・エンジニア』は僅か5日という期間で制作された[注 8]。以前のR&B色は薄まり、当時の世相を反映させたアルバムで、メンバーのアイデアをふんだんに詰め込んだポップな内容となっている。作詞をレルフ、プロデュースをサミュエル=スミス[注 9]、ライナーノーツをマッカーティ、ジャケットのイラストとデザインをドレヤが手掛けた。ベックのフィードバック奏法は本作の目玉となった。この時期のヒット曲としては、「ハートせつなく」、「いたずらっ娘」、「スティル・アイム・サッド」(「いたずらっ娘」のカップリング曲)、「アイム・ア・マン(英語版)」(ボ・ディドリーのカバー)、「シェイプス・オブ・シングス(英語版)」、「サイドウェイズ・ダウン(英語版)」などがある。 サミュエル=スミスが、以前から興味のあったプロデューサー業に転職するという理由で脱退した。ペイジは、オックスフォード大学で行われたコンサートで、レルフが興奮の余り観客に向かって"Fuck"を連発した挙句、ドラムセットに向かって背中から突っ込みそのまま引っくり返ってしまい、それに対してサミュエル=スミスが激怒して脱退を宣言したと回想している。優れたベーシストでバンドの楽曲の殆どの作曲とプロデュースを行っていたサミュエル=スミスに抜けられたのは痛手だった。そこでベックは友人であり、プロデューサーの経験が豊富なペイジをバンドに迎え入れることを提案し、ペイジは快く参加した。実はペイジはベースを弾いた経験が無かったが、何でもいいからバンド活動を開始出来るチャンスを探していた当時の自分にとっては都合が良かったと、後に証言している。 1週間ほどペイジがベースを担当したあと、ベースをドレヤに持たせてツインリード編成にして立ち位置を左右にすることでステレオ効果を発揮。今までよりも更に攻撃的な「Happenings 10 Years Time Ago(幻の10年)」、「Psycho Daisies」そしてミケランジェロ・アントニオーニ監督の映画『欲望』(原題:Blow Up)[4]の挿入歌として使用された「Stroll On」[注 10]の3曲が作られる。『欲望』には本来ザ・フーが出演する予定だったが、都合で彼等に変更された。この映画はベック・ペイジ体制の数少ない貴重な映像としても知られている。劇中ではベックがギターを壊す演技をするシーンがある。このパフォーマンスを気に入ったベックは、当時のライブで盛んにギター壊しを行っていたという。 しかしこの体制は数ヶ月と長続きせず、ベックがライブを欠席する機会が増えていった。マネージャーのネイピア=ベルのレコード・コレクターズ誌上でのインタビューによると当時のメンバーの仲は最悪で、ベックはメンバーとの不仲にストレスを溜め、アメリカでのツアー中に体調を崩したり、アメリカで知り合った女性と遊んでいたなどといわれている。そしてついにベックはある日、ペイジに「俺は辞める」と言い残し、バンドには二度と顔を出さなくなった。公的には「扁桃炎を患ったために脱退」とされた。 ペイジ時代は良くも悪くも一番長続きした時代である。ペイジはベック抜きで時々演奏していたため、そのまま4人体制でいけると判断。そしてハーマンズ・ハーミッツのプロデューサーだったミッキー・モストのプロダクションに移籍。マネージャーのネイピア=ベルもベックを追う形で辞め、後任はペイジと旧知のピーター・グラントになった。この時ネイピア=ベルは「メンバーの中に凄く頭の切れる奴がいる…ジミー・ペイジさ」とグラントに話したという。ペイジはセッション時代に培った豊富なアイデアを持ち、よりハードなサウンドを推し進めていったが、当時のプロデューサー、ミッキー・モストやピーター・グラントは、ポップ志向の強い楽曲をレコードにすることをバンドに強要した。そして、その影響が顕著なアルバム『リトル・ゲームズ』がアメリカのみでリリースされる。この頃、バンドはイギリスでの人気は落ち目であった。しかし海外ではまだ需要があったため、アメリカやヨーロッパ各国を回るツアー三昧の日々が続いた。ライブ演奏を楽しんでいたペイジをよそに、他のメンバー達は意欲を失いつつあった。レコード・セッションにも参加せず[注 11]、マッカーティはドラッグ漬けで時折演奏不能に陥ったり、元々低めな声のレルフは、ラウドになってゆくバンドのサウンドに付いて行けず声が破綻寸前だった。解散後に発表されたライブ盤『LIVE YARDBIRDS FEATURING JIMMY PAGE』[注 12]は、そんな状況をしっかりと刻んでいる。 そして、「Goodnight Sweet Josephine」、「Think About It」のシングルを発表。1968年7月7日のラトンでのコンサートを最後にレルフとマッカーティは脱退しアコースティック・デュオを結成。ペイジはテクニックを重視しスティーヴ・マリオットやスティーヴ・ウィンウッド、テリー・リード エリック・クラプトン[注 15]、ジェフ・ベック、ジミー・ペイジはリンク参照。
ベック & ペイジ時代(1966年)
キース・レルフ(ボーカル、ハープ)
ジム・マッカーティ(ドラムス)
クリス・ドレヤ(ギター、のちベース)
ジミー・ペイジ(ベース、のちギター)
ジェフ・ベック(ギター)
ペイジ時代(1966年 - 1968年)
キース・レルフ(ボーカル、ハープ)
ジム・マッカーティ(ドラムス)
クリス・ドレヤ(ベース)
ジミー・ペイジ(ギター)
その後のメンバー達