ザ・マザーズ・オブ・インヴェンション
[Wikipedia|▼Menu]
□記事を途中から表示しています
[最初から表示]

^ 自伝The Real Frank Zappa Book. (Touchstone. ISBN 0-671-70572-5)ではthe M.O.I.という略語が使われている。
^ ザッパは1961年にレコーディング・エンジニアのポール・バフに出会い、バフが設立して所有していたパル・レコーディング・スタジオに出入りして、彼からレコーディングの基本を学んだ。やがてバフがハリウッドのスタジオで仕事をする時間が増えたのをきっかけに、ザッパは実質パル・レコーディング・スタジオを引き継ぎ、1964年7月にはバフの負債を肩代わりしてスタジオを買い取って、8月にスタジオZとして再出発させた。
^ 彼等は1963年にNed and Neldaの名義でシングル'Hey Nelda'、Baby Ray and The Fernsの名義でシングル'How's Your Bird?'を発表した。前者は二人の共作で、後者はザッパの単独作である。
^ ザッパは自伝に、コリンズがギタリストと喧嘩して暴力を用いて追い出したと記したが、コリンズによると、ギタリストはバンドを辞めたくて間違った演奏をするようになり、それを他のメンバーに指摘されて去っていったという。
^ コリンズがザッパに電話したのは、偶然にも彼が刑務所から出所した数日後のことであった。ザッパは1964年8月1日にスタジオZを再出発させて以来、様々なレコーディングを続けていた。しかし表通りの向こう側の教会が、スタジオZには怪しげな人々が出入りしていると警察に報告したので、警察はザッパが公序良俗に反する映画を撮影しているのではと疑った。1965年3月、ザッパは客を装った刑事がよこした「パーティ―で流したいから、行為を録音したテープを作ってくれ」という注文に応じてしまい、ガールフレンドと共同で、ベッドがきしむ音と声だけで行為を擬した30分程度のテープを制作した。そして3月26日に代金の支払いと引き換えに注文品を手渡そうとしたところ、踏み込んできた警官に連行された。彼は軽犯罪で有罪の判決を受けて「懲役6か月、10日間の執行の後に猶予、3年間の保護観察処分」の刑に服することになり、サンバーナーディーノ郡の刑務所の44℃近い室温の不衛生な房に45人の罪人と共に10日間押し込められた。この間、一度も掃除された痕跡がないシャワー室とトイレをあてがわれ、ゴキブリが入ったオートミールを朝食に支給される、という劣悪極まりない環境に置かれた。出所してスタジオZに行くと、そこは警察の捜査によってすっかり荒らされ、テープや機材などが押収されていた。
^ メンバー達が新しいバンド名をザ・マザーズに決めた日は5月の第2日曜日で「母の日」であったが、彼等は後日その偶然に気がついたという。
^ この頃、ザッパはスタジオZの賃貸の支払いを滞らせたので家主から締め出されてしまい、スタジオZでの彼の活動は終わった。
^ 定期的に出演していたジョニー・リバースがツアーで不在になったのがきっかけだった。
^ ザッパ、コリンズ、エストラーダ、ブラックは、ハリウッドに移った後、5人目のメンバーとしてアリス・スチュアート(ギター)、ヘンリー・ヴェスタイン(ギター)、スティーブ・マン(ギター)、ジム・ガルシオ(ギター)といった面々が次々に入れ替わる中、活動を続けてきた。ヴェスタインは後にキャンド・ヒートのオリジナル・メンバーになった。ガルシオはシカゴのプロデューサーとして名を馳せたジェイムス・ウイリアム・ガルシオである。
^ コリンズは貧しさに耐えられずに年の初めに脱退したが、イングバーの加入と相前後して再加入した。
^ ベーシストのエストラーダは、ローウェル・ジョージとともに、リトル・フィートを結成した。ジョージは、1968年後半から1969年前半にかけての数ヶ月間、MOIに在籍したが、ドラッグに溺れていたためザッパから解雇された。
^ ピンク・フロイドザ・ナイスイエスソフト・マシーンキャプテン・ビーフハート・アンド・ヒズ・マジック・バンドなどが出演。ザッパとピンク・フロイドがジャム・セッションを行なう映像が残っている。
^ジョン・メイオールズ・ブルースブレイカーズ
^ ホット・ラッツやチュンガといった単語は、この時期に発表されたザッパのソロ・アルバム『ホット・ラッツ』(1969年)、『チュンガの復讐』(1970年)の題に由来していると考えられる。
^ ボルマンがPhlorescent Leech、カイランがEddieという通名を持っており、フロレセント・リーチ&エディ、略してフロ&エディとして知られる。
^ ザッパが1970年に発表したソロ・アルバム『チャンガの復讐』で初めてザッパと共演し、1970年代中期のMOIの中核を担うメンバーとなった。
^ 後にメンバー・チェンジで、元MOIのプレストン、ジム・ポンズ(ベース・ギター)、ボブ・ハリス(キーボード、ヴォーカル)が加入した。
^ オリジナル・メンバーのジミー・カール・ブラック、フォーク歌手のセオドア・ビケルリンゴ・スターキース・ムーンなどが出演した。
^ この一つ前のコンサートは、一週間前の12月4日にスイスのモントルー・カジノで開かれ、アンコールの時に観客の一人が打ち上げた花火によって火災が発生。犠牲者は出なかったが、MOIは機材を失ってしまった。新作アルバムの制作の為に現地に滞在していたディープ・パープルは、この火災に遭遇して、のちに代表曲の一つになったスモーク・オン・ザ・ウォーターを制作した。
^ 結婚前にルース・コマノフの名で『アンクル・ミート』(1969年)に参加してマリンバやビブラハープを演奏した。また『200モーテルズ』(1971年)にもゲストで参加した。
^ 1972年9月24日のボストン公演のライブ音源が、ザッパの遺族によって2007年にザッパ名義のCD『ワズー』として発表された。
^ ツアーからのライブ音源が、ザッパの遺族によってImaginary Diseases(2006年)、Little Dots(2016年)に収録されて発表された。いずれのCDの名義もザッパであった。
^ ジャケットには"ZAPPA/MOTHERS"と記された。
^ フランク・ザッパ・アンド・ザ・マザーズ・オブ・インヴェンションの名義。
^ 1975年4月と5月に行なわれたMOIとキャプテン・ビーフハートとの共同名義による国内ツアーのライブ音源を中心にしたアルバムで、ザッパ/ビーフハート/マザーズの名義で発表された。
^ 後年、ザッパや彼の遺族がMOIの音源を収録して発表したCDには、『プレイグラウンド・サイコティクス』(1992年)や『アヘッド・オブ・ゼア・タイム』(1993年)のようにMOIの名前が名義に含まれたものと、『ヘルシンキテープス'74 / オン・ステージ Vol.2』(1988年)のようにフランク・ザッパ名義のものとがある。
^ ザッパ、テリー・ボジオ(ドラムス)、ナポレオン・マーフィー・ブロック(テナー・サクソフォーン、ボーカル)、ロイ・エストラーダ(ベース・ギター、ボーカル)、アンドレ・ルイス(キーボード、ボーカル)の5人編成。
次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:115 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef