1962年5月、ドンとボブの2人はオーストラリアやニュージーランド、アメリカ、香港、フィリピンのツアー後に初来日し、東芝音楽工業(のちに東芝EMI)のイベントに参加した。ウッドベースとドラムは日本人が担当。ボブの回想によると「別に悪いミュージシャンではなかったが、ビートの感覚が違っていた」。この時米軍基地への慰問演奏なども行った記録が残っている[14]。同時に来日したのは後に共作アルバムを発表するボビー・ヴィー、ジョー・アン・キャンベルだった[15][16]。
ベンチャーズが日本で人気が出たのは1965年1月、アストロノウツなどとのパッケージ・ツアーとしてドン、ボブ、ノーキー、メルの4人で行った2回目の日本公演からだった[17]。彼等は専用ギターであるモズライトのギターを真空管アンプにプラグ・インしてラウドかつ強烈なサウンドを生み出して、たちまち若者達たちを虜にして一大エレキ・ブームを巻き起こした。
1965年7月から8月にかけて、東芝音楽工業に所属する加山雄三とTV番組で共演し、加山との長年に渡る交友関係のきっかけを作った[18]。当時の日本ではTVのリハーサルは代役が当たり前だったので、加山はリハーサルに代役を立てて休んでいた。するとベンチャーズ側が立腹して「そんないい加減な奴らと共演はできない」と言い放って出演拒否の騒ぎになり、加山が謝罪しリハーサルをきちんと行って事なきを得た。
1966年、加山の「君といつまでも」のカバーを日本で発表[19]。 東芝音楽工業は5大レコード会社(キング、コロムビア、ビクター、テイチク、ポリドール)に次ぐ新興のレコード会社で、当初は専属作曲家がいなかった[20]。 ベンチャーズ歌謡をプロデュースした[21]東芝音楽工業の草野浩二によると、ベンチャーズは来日時に日本の歌謡曲を聞いて研究した上で、「こういうメロディを作ったから聞いてくれ」と売り込んできた[20]。そのメロディ・ラインは「外国人が作ったとは思えないほど日本人の好みに合致する歌謡曲」だったため、日本語の歌詞をつけるのを企図するようになる。 1966年、「GINZA LIGHTS」(銀座の灯り)はもともと越路吹雪(東芝所属)のために、ベンチャーズが銀座の夜景をイメージして書いたものであったが、曲を聴いた越路は「これは自分が歌うより、もっと若い人が歌った方がいい」と青春映画スターである和泉雅子と山内賢に曲を譲り、「二人の銀座」(和泉雅子&山内賢)としてリリースされ、大ヒット[18]。作詞は永六輔が担当、軽快な曲調と爽やかな歌声でミリオンセラーの大ヒットとなり、翌年、二人の主演で同名の映画も製作される。この成功により、東芝は他の所属歌手の曲制作もベンチャーズに依頼するようになる[18]。「二人の銀座」には続編が制作され「東京ナイト」という曲をベンチャーズが作曲し、同名の映画が和泉雅子&山内賢主演で制作されている。 続いて1967年には「北国の青い空」(奥村チヨ)をリリース。 1968年、ノーキー・エドワーズが一度脱退し、後任ギタリストにジェリー・マギーが加入すると、より本格的に日本をテーマにした楽曲を作り始め、「京都の恋」(1970年)、「京都慕情」(1970年)、「長崎慕情 1972年、ジェリー・マギーとメル・テイラーの脱退後、ノーキー・エドワーズが復帰し、メルの後任には元SHANGOのジョー・バリルが加入した。脱退したジェリーとメルは新たなバンド「メル・テイラー&ザ・ダイナミックス」を結成し、2005年よりベンチャーズの一員となったボブ・スポルディングも同バンドにてリズムギターを担当しており、翌1973年に初来日を果たした。 1978年、ジョー・バリルがコカイン所持の疑いで警視庁に逮捕された[24]後に脱退(解雇)。メル・テイラー&ザ・ダイナミックス解散を経てメル・テイラーが復帰し、ドン、ボブ、ノーキー、メルの4人が再び勢揃いする。その後、ジェリー・マギーも復帰し、1984年にボブ・ボーグルが入院したため、その代役としてリードギタリストであるジェリーとノーキーが交互にツアーでベースを担当していた。その後、ノーキーがソロ活動等のために再び脱退し、以降はジェリーがリードギターに専念するようになる。1991年大晦日には、ドン、ボブ、ジェリー、メルの4人で第42回NHK紅白歌合戦に出場し、10番街の殺人、ダイアモンド・ヘッド、パイプラインの3曲を演奏した[25]。 1996年、夏の来日ツアー中にメル・テイラーが体調を崩しアメリカへ緊急帰国したが、それから僅か10日後に死去。ザ・ナックのドラマーであったブルース・ゲイリーが代役を務める。同年の中野サンプラザで追悼公演が行われ、後任となるメル・テイラーの息子リオン・テイラーの紹介がなされ、数曲、ドラマーとして演奏し、以後、現在も在籍しドラマーとして活動を続けている。 1998年、赤坂BLITZにて開催された「永遠のギターキッズ」にて、加山雄三、ハイパーランチャーズ、Dr.K Project、中シゲヲと共演。ドン、ボブ、ノーキー、ジェリー、リオンが同じ舞台に立ち、歴史的共演を行った。なお、この公演の2日目には、山下達郎もゲスト出演した。1999年以降はジェリーが夏、ノーキーがスペシャルゲストとして冬にそれぞれ日本公演でリードギターを演奏するようになり、ノーキーが来日ツアーを引退する2016年までほぼ毎年夏期と冬期両方に来日していた。 2004年、日米交流150周年記念外務大臣賞を受賞[26]し、ドン、ボブ、ノーキーが授賞式に参加。2005年にボブ・ボーグルが体調悪化によりツアー参加が難しくなったため、ボブ・スポルディング(元メル・テイラー&ザ・ダイナミックスのリズムギタリスト)がサポートメンバーとして加入した。 2006年、彼らの最初の大ヒット曲である「急がば廻れ(ウォーク・ドント・ラン)」がグラミー賞の殿堂入りを果たし[27]、2008年にはロックの殿堂(The Rock and Roll Hall of Fame and Museum)入りを果たした[28]。
ベンチャーズ歌謡の背景
1970年代 - 1990年代
2000年代 - 2010年代