ザ・ベンチャーズ
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後任ドラマーにメル・テイラーを迎え1960年代全盛期の4人が揃った[11]。またメルが加入する前にリードギター担当がボブからノーキーになった。この交代は、元バック・オウエンスのメンバーとして既にギタリストとしてのスタイルを完成させていたノーキーにリードギターを任せた方がバンドの将来にもいいだろうというボブの判断によるものだった。またボブがベースの楽しさや自由さに開眼したことも理由の一つだった。ノーキーは後のインタビューで「ボブがリードギターを担当しているのはせいぜい数曲だろう」と発言している。デビュー前のスタジオ・ミュージシャンだったレオン・ラッセルが「テルスター」でオルガン[12]、「朝日のあたる家」でオルガン・ソロ、「十番街の殺人」でアルト・サクソフォーンの音をレスリー・スピーカーから出す手法を用いてソロを演奏した。この時期、ドラマーのメル・テイラーはハーブ・アルパート&ザ・ティファナ・ブラスの1stシングル曲「悲しき闘牛/the lonely bull」に参加している。セッション・ドラマーのハル・ブレインは自分が演奏したと自伝の中で主張しているが、それは同タイトルのアルバム収録曲の方である[13]

1962年5月、ドンとボブの2人はオーストラリアニュージーランドアメリカ香港フィリピンのツアー後に初来日し、東芝音楽工業(のちに東芝EMI)のイベントに参加した。ウッドベースとドラムは日本人が担当。ボブの回想によると「別に悪いミュージシャンではなかったが、ビートの感覚が違っていた」。この時米軍基地への慰問演奏なども行った記録が残っている[14]。同時に来日したのは後に共作アルバムを発表するボビー・ヴィー、ジョー・アン・キャンベルだった[15][16]

ベンチャーズが日本で人気が出たのは1965年1月、アストロノウツなどとのパッケージ・ツアーとしてドン、ボブ、ノーキー、メルの4人で行った2回目の日本公演からだった[17]。彼等は専用ギターであるモズライトのギターを真空管アンプにプラグ・インしてラウドかつ強烈なサウンドを生み出して、たちまち若者達たちを虜にして一大エレキ・ブームを巻き起こした。

1965年7月から8月にかけて、東芝音楽工業に所属する加山雄三とTV番組で共演し、加山との長年に渡る交友関係のきっかけを作った[18]。当時の日本ではTVのリハーサルは代役が当たり前だったので、加山はリハーサルに代役を立てて休んでいた。するとベンチャーズ側が立腹して「そんないい加減な奴らと共演はできない」と言い放って出演拒否の騒ぎになり、加山が謝罪しリハーサルをきちんと行って事なきを得た。

1966年、加山の「君といつまでも」のカバーを日本で発表[19]
ベンチャーズ歌謡の背景

東芝音楽工業は5大レコード会社(キングコロムビアビクターテイチクポリドール)に次ぐ新興のレコード会社で、当初は専属作曲家がいなかった[20]

ベンチャーズ歌謡をプロデュースした[21]東芝音楽工業草野浩二によると、ベンチャーズは来日時に日本の歌謡曲を聞いて研究した上で、「こういうメロディを作ったから聞いてくれ」と売り込んできた[20]。そのメロディ・ラインは「外国人が作ったとは思えないほど日本人の好みに合致する歌謡曲」だったため、日本語の歌詞をつけるのを企図するようになる。

1966年、「GINZA LIGHTS」(銀座の灯り)はもともと越路吹雪(東芝所属)のために、ベンチャーズが銀座の夜景をイメージして書いたものであったが、曲を聴いた越路は「これは自分が歌うより、もっと若い人が歌った方がいい」と青春映画スターである和泉雅子山内賢に曲を譲り、「二人の銀座」(和泉雅子&山内賢)としてリリースされ、大ヒット[18]。作詞は永六輔が担当、軽快な曲調と爽やかな歌声でミリオンセラーの大ヒットとなり、翌年、二人の主演で同名の映画も製作される。この成功により、東芝は他の所属歌手の曲制作もベンチャーズに依頼するようになる[18]。「二人の銀座」には続編が制作され「東京ナイト」という曲をベンチャーズが作曲し、同名の映画が和泉雅子&山内賢主演で制作されている。

続いて1967年には「北国の青い空」(奥村チヨ)をリリース。

1968年、ノーキー・エドワーズが一度脱退し、後任ギタリストにジェリー・マギーが加入すると、より本格的に日本をテーマにした楽曲を作り始め、「京都の恋」(1970年)、「京都慕情」(1970年)、「長崎慕情」(1971年)(いずれも渚ゆう子)、「雨の御堂筋」(1971年)(欧陽菲菲[18][21]など、次々とヒット曲が生み出され、それらは「ベンチャーズ歌謡」と称されるようになった。その日本情緒豊かな楽曲は「アメリカ人にこんな日本的な曲が書けるのか」と当時の日本の音楽評論家たちを驚かせた[22]。中でも「京都の恋」は(1970年第12回日本レコード大賞企画賞を受賞している[23]
1970年代 - 1990年代

1972年、ジェリー・マギーとメル・テイラーの脱退後、ノーキー・エドワーズが復帰し、メルの後任には元SHANGOのジョー・バリルが加入した。脱退したジェリーとメルは新たなバンド「メル・テイラー&ザ・ダイナミックス」を結成し、2005年よりベンチャーズの一員となったボブ・スポルディングも同バンドにてリズムギターを担当しており、翌1973年に初来日を果たした。

1978年、ジョー・バリルがコカイン所持の疑いで警視庁に逮捕された[24]後に脱退(解雇)。メル・テイラー&ザ・ダイナミックス解散を経てメル・テイラーが復帰し、ドン、ボブ、ノーキー、メルの4人が再び勢揃いする。その後、ジェリー・マギーも復帰し、1984年にボブ・ボーグルが入院したため、その代役としてリードギタリストであるジェリーとノーキーが交互にツアーでベースを担当していた。その後、ノーキーがソロ活動等のために再び脱退し、以降はジェリーがリードギターに専念するようになる。1991年大晦日には、ドン、ボブ、ジェリー、メルの4人で第42回NHK紅白歌合戦に出場し、10番街の殺人、ダイアモンド・ヘッド、パイプラインの3曲を演奏した[25]

1996年、夏の来日ツアー中にメル・テイラーが体調を崩しアメリカへ緊急帰国したが、それから僅か10日後に死去。ザ・ナックのドラマーであったブルース・ゲイリーが代役を務める。同年の中野サンプラザで追悼公演が行われ、後任となるメル・テイラーの息子リオン・テイラーの紹介がなされ、数曲、ドラマーとして演奏し、以後、現在も在籍しドラマーとして活動を続けている。

1998年、赤坂BLITZにて開催された「永遠のギターキッズ」にて、加山雄三、ハイパーランチャーズ、Dr.K Project、中シゲヲと共演。ドン、ボブ、ノーキー、ジェリー、リオンが同じ舞台に立ち、歴史的共演を行った。なお、この公演の2日目には、山下達郎もゲスト出演した。1999年以降はジェリーが夏、ノーキーがスペシャルゲストとして冬にそれぞれ日本公演でリードギターを演奏するようになり、ノーキーが来日ツアーを引退する2016年までほぼ毎年夏期と冬期両方に来日していた。
2000年代 - 2010年代

2004年、日米交流150周年記念外務大臣賞を受賞[26]し、ドン、ボブ、ノーキーが授賞式に参加。2005年にボブ・ボーグルが体調悪化によりツアー参加が難しくなったため、ボブ・スポルディング(元メル・テイラー&ザ・ダイナミックスのリズムギタリスト)がサポートメンバーとして加入した。

2006年、彼らの最初の大ヒット曲である「急がば廻れ(ウォーク・ドント・ラン)」がグラミー賞の殿堂入りを果たし[27]2008年にはロックの殿堂(The Rock and Roll Hall of Fame and Museum)入りを果たした[28]


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