ザ・フェデラリスト
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ジェームズ・マディソン、ハミルトンの重要な共同執筆者、後のアメリカ合衆国大統領、「憲法の父」

ハミルトンが残した著者と論文番号のリストを使って最初に出版されたのは1810年の版だった。この版は2巻本の「ハミルトンの作品」として出版された。1818年、ジェイコブ・ギデオンがマディソンの用意したリストをもとに新しい著者名を記した版を出版した。ハミルトンとマディソンのリストの違いはその後も12篇の論文について著者の特定に関する議論の種になった[14]

ホプキンスの版とギデオンの版は、著者の了解を得た上で論文そのものにもかなりの編集を加えていた。1863年、ヘンリー・ドーソンがこれらの論文はそれが書かれた時代背景のままに保存されるべきだと主張して、後に著者によって編集されたものではなく、初稿を用いた版を出版した[15]

現代の学者達はジェイコブ・E・クックが1961年に出版した本文を使うことが多い。この版は第1篇から第76篇までは新聞に掲載されたものを使い、第77篇から第85篇まではマクリーンの版を使った[16]
著者に関する論争

論文のリスト(英文)も参照

『ザ・フェデラリスト』の論文のうち73編の著者はかなり確かなものになっている。残り12編は学者の間の論争の的となっているが、現代で同意されている見解は、マディソンが第49篇から第58篇までを書き、第18篇から第20篇はマディソンとハミルトンの共同執筆、第64篇はジョン・ジェイによるものということであるが、新しい証拠ではマディソンが著者であることを示唆している。最初にどの論文がどの著者によるものかを公開したのは、ハミルトンがアーロン・バーとの決闘の前に弁護士に各篇の著者を示すリストを与えたことだった。このリストではハミルトンが63編(そのうち3編はマディソンとの共同)を書いたとしており、全体のほぼ4分の3に相当した。これは初めて著者名を記した1810年版の根拠として使われた[17]ジョン・ジェイ、『ザ・フェデラリスト』5編の著者、後にアメリカ合衆国最高裁判所初代長官となった

マディソンはハミルトンのリストに即座に異論を唱えなかったが、1818年のギデオン版『ザ・フェデラリスト』には独自のリストを与えた。マディソンは29編が自分の著作であると主張し、2つのリストにある違いは「ハミルトンのメモが作られたときの疑いもない性急さによる」ことを示唆していた。ハミルトンが犯した明らかな誤りは第54篇をジョン・ジェイ作としていることであり、実際には第64篇とすべきである。このことはマディソンの示唆に幾らか信憑性を与えた[18]

単語の使用頻度や文体に基づいて著者を特定するための統計解析が何度か行われた。その解析のほとんど全てが論争のある論文はマディソンによって書かれたことを示した[19][20]
批准議論に与えた影響

『ザ・フェデラリスト』は特にニューヨーク州における憲法批准のために書かれた。その使命が果たされたかどうかは疑問である。各州で様々な批准の過程があり、ニューヨーク州以外でこれらの論文が確実に再発行されたわけではなかったからである。さらに論文が掲載される間に多くの重要州が批准を完了した。例えばペンシルベニア州は1787年12月12日に批准を終えた。ニューヨーク州が批准したのは1788年7月26日になってからのことだった。確かに『ザ・フェデラリスト』は他のどこよりもニューヨーク州で重要だったが、ファートワングラーは「批准論争の中で他の主要勢力に対抗できたとは思えない」と主張している。特に対抗する勢力には著名な連邦党員例えばハミルトンやジェイがおり、反連邦党としてはニューヨーク州知事ジョージ・クリントンがいた[21]。また、ニューヨーク州が憲法を批准したときまでに、新政府が樹立されており、10番目の批准州であるバージニア州がニューヨーク州の批准に圧力を掛けた。この事実を踏まえて、ファートワングラーは「ニューヨーク州が拒否すれば奇妙なアウトサイダーになったことだろう」と述べた[22]

6月25日批准会議でやっと憲法を批准したバージニア州については、ハミルトンがマディソンに宛てて『ザ・フェデラリスト』の集約版をバージニア州に送ったと手紙で報せた。ファートワングラーは、「バージニア州の会議で討論者のハンドブック」として機能したと見ている。ただしこの間接的な影響力が「怪しげな性質の物」だったろうとも主張している[23]。何れにしてもバージニア州での議論でおそらく大きく重要だったことは憲法案をジョージ・ワシントンが支持していることであり、基準のための会議における議論にマディソンや知事のエドムンド・ランドルフが出席していることだった。

『ザ・フェデラリスト』が機能すると想定された別の目的は批准会議で討論者のハンドブックとしてであり、実際にニューヨーク州とバージニア州の会議では憲法を擁護する者達がまさしくその目的でこの論文を使った。
構造と内容

『ザ・フェデラリスト』の序文(第1篇)はこの連作の導入部として機能し、ハミルトンはその後の論文で言及される下記6つの話題を挙げた[24]
諸君の政治的繁栄にとって連邦が有益であること、第2篇-第14篇

この連邦を維持してゆくためには、現在の諸邦連合では不十分であること、第15篇-第22篇

この目的を達成するためには、少なくとも現在提案されているものと同程度に強力な政府が必要であること、第23篇-第36篇

提案されている連邦憲法案が共和政治の真の原理に適合していること、第37篇-第84篇

この連邦憲法案が諸君自身の憲法(ニューヨーク邦憲法)と類似していること、第85篇

この連邦憲法案を採択することによって、共和政治の保持が、そして自由、財産がさらに保障されるであろうこと、第85篇[25]

ファートワングラーは連作が書かれて行くにつれて、当初の計画がいくらか変わったと言っている。第4篇は憲法の各条項およびそれが義務付ける制度の詳細にまで入り、後半2つの話題は最後の第85篇で簡単に触れられただけだった。

この論文集は上記の話題と同様に著者によっても分類できる。連作の開始時点では著者の3人が寄稿することになっていた。前半20編はハミルトンによって11編が、マディソンによって5編が、ジェイによって4編が書かれた。しかしその他の論文は1人の作者による3つの長い部分になっていた。すなわち第21篇から第36篇はハミルトンが、第36篇から第58篇はハミルトンがオールバニにいる間にマディソンが書いた。第65篇から最後まではハミルトンが書き、マディソンがバージニア州に出発した後で掲載された。
権利章典に対する反対

『ザ・フェデラリスト』(特に第84篇)は後に権利章典となったものに対する反対論で著名である。憲法に権利章典を付け加えるというアイディアは当初書かれた時の憲法が具体的に人権の列挙あるいは保護を規定しておらず、むしろ政府の権限を挙げて、それ以外のものは州と人民に担保されるとしていた。アレクサンダー・ハミルトンは第84篇の著者であり、そのような人権の列挙が一度書かれてしまえば、人々が持つ権利は「挙げられているだけ」と解釈されてしまうことを恐れた。

しかし、ハミルトンの権利章典にたいする反対は普遍的なものではなかった。「ブルータス」という匿名で論文を出したロバート・イェーツはいわゆる反フェデラリスト第84篇の中でこの見解を披瀝し、そのような条項によって拘束されない政府は容易に専政に変わりうると主張した。トーマス・ジェファーソンのような権利章典の支持者達は、権利のリストが包括的であるということにはならないし、そう解釈されるべきではない、すなわちこれらの権利は人民が持っている重要な権利の例であるが、人民は他の権利も持ち得ると主張した。この考え方に付く人々は司法がこれらの権利を拡張的に解釈するという自信があった。この問題はアメリカ合衆国憲法修正第9条によって解消された。
現代の研究と解釈
法的用途

連邦判事は憲法を解釈するときに、当時のその枠組みを作った者や批准した者の意図を証言するものとして『ザ・フェデラリスト』を使うことが多い[26]外交政策に関する連邦政府の権限(「ハインズ対デビッドウィッツ事件」)から遡及法の有効性(1798年の「カルダー対ブル事件」判決、明らかに最初の判決は『ザ・フェデラリスト』に言及した)まで幅広い問題に適用されてきた[27]。『ザ・フェデラリスト』は最高裁判決で291回引用された[28]

憲法解釈において『ザ・フェデラリスト』に与えられるべき敬意の量は常に幾らかの議論になってきた。1819年には既に最高裁長官ジョン・マーシャルが、有名な「マカロック対メリーランド州事件」で「あの作品の著者等に表明された意見は憲法を解釈するときに大きな尊敬を与えられると考えるのが正当である。その利点を超えては如何なる賛辞も与えられるべきではない。しかし、我々の政府の発展時に持ち上がる問題に彼等の意見を適用するときに、その正しさを判定する権利は残されていなければならない。」と述べた[29]。マディソン自身は『ザ・フェデラリスト』が建国の父達の概念を直接表明したものではないだけでなく、それら概念自体、および「制定会議での議論と付随した結論」は「如何なる権威的性格」を持っているものとして見られるべきではないと考えた。要するに、「法律文書の法的意味はその文章自体から得られなければならない。すなわち重要な言葉を他に求めるならば、憲法を計画し提案した主体の意見や意図であるはずは無くて、各州の会議でそれが所有する権威を全て記録した人々によってそれに付加された意味合いにあらねばならない。」[30][31]
脚注^ a b Jackson, Kenneth T. The Encyclopedia of New York City: The New York Historical Society; Yale University Press; 1995. p. 194.
^ Furtwangler, 17.
^ Richard B. Morris, The Forging of the Union: 1781-1789 (1987) p. 309
^ a b Furtwangler, 51.
^ See, e.g. Ralph Ketcham, James Madison. New York: Macmillan, 1971; reprint ed., Charlottesville: University Press of Virginia, 1998. See also Irving N. Brant, James Madison: Father of the Constitution, 1787-1800. Indianapolis: Bobbs-Merrill, 1950.


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