ザ・ドリフターズ
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なお、東芝音楽工業在籍中「ドリフのツーレロ節」のみ、当時渡辺プロが出資していたワーナー・ブラザース・パイオニア(→ワーナー・パイオニア→現名称:ワーナーミュージック・ジャパン)から出ている。また、「ドリフの早口ことば」及びドリフメンバーが歌唱に参加していない『全員集合』使用曲「『ヒゲ』のテーマ」「ドリフのわんダードッグ」は、渡辺プロの関連企業だったサウンズ・マーケッティング・システムから発売された。
メンバー構成

前期バンド時代のメンバーは、当時のバンド移籍文化もあり、移り変わりが激しかった。

初期のメンバーには、坂本九小野ヤスシらがいたが、このうち小野は新リーダーになったいかりやに反発してジャイアント吉田(元催眠カウンセラーの吉田かずお)らとともに4人で脱退し、ドンキーカルテットを結成した。その時、残ったのはいかりやと加藤と小山、綱木の4人だった。その後、新生ドリフになってからは、1965年初頭の小山、新メンバー石川の脱退、その後に前述の綱木の脱退こそあったものの、それ以降はメンバーはほぼ固定され、常時5人の構成が取られるようになった。ただし、荒井注の活動休止宣言(実質的な脱退宣言)の際には志村けんが正式見習いとして加入し、一時的に6人構成となった。また、いかりやの著書では、すわしんじ(現:すわ親治)の活躍ぶりにより、正メンバーではないが彼を6人目のメンバーと見なしている。他に付き人は大勢在籍していたが、メンバーとして紹介されることはない。なお、いかりや没後には新メンバーを加入させず、4人構成となり、志村が他界した2020年3月以降は、加藤・高木・仲本の3人構成となり、2022年10月に仲本工事が他界してからは加藤・高木の2人構成となる。

いかりやの著書によれば、いかりやは「自分が加入した当初のドリフターズがそうだったように、荒井が志村に交代したような形でメンバーを徐々に入れ替え、自分のようにネタを創れる志村とすわを中心にした新メンバーでドリフを継続する」ことを計画していた。
芸名の由来

新生ドリフ初期メンバーの名付け親は、当時の所属事務所・渡辺プロダクションの先輩格でドリフのメンバー達にとって憧れの存在だった「クレージーキャッツ」のリーダー・ハナ肇[8][9]

なお、後に加入した志村は自分の父親の名前・憲司より芸名を決め、すわの芸名はいかりやにより名付けられた(各人の芸名の由来は各人の項参照)[8]

こうした経緯から、クレージーキャッツをドリフターズの師匠格とするような記述もあるが、個人やグループを問わず、特に芸について指導を受けたわけではないのでこれは正確ではない。
ミュージシャンとしてのドリフ

「新生ドリフ」はカバー曲や替え歌が主体のため、コミック・ソングとしては、「クレージーキャッツ」より低く見られがちだが、初期の多くの曲を手がけたなかにし礼の作詞と川口真のアレンジは、独自の「ドリフ・ミュージック」を作り上げた。

1966年6月30日と7月1日、ビートルズ日本公演の前座を務めた(7月2日は出演せず)[10]。僅か1分15秒の出演時間ではあったが、前座用のステージではなく、ビートルズと同じメインステージで演奏した(ただし、加藤のドラムセットはリンゴ・スターのものとは隔離されていた)。これをきっかけに、ドリフが注目されるようになる。なお、加藤茶は、ビートルズの前座はしたものの、警備が厳しくビートルズのメンバーには会えなかったと語っているが、いかりやは自著で(ドリフ側が)舞台から退場するときにすれ違ったと記している。なおIN JAPAN 1966 50TH ANNIVERSARY EXTRA EDITIONによると『のっぽのサリー』が演奏されたのは開場から2曲目である。音楽之友社から出版された「POPS」1966年8月号の特集「熱狂の三十五分」のP31?によると6月30日の開場のベルは予定より5分遅れの6時35分でビートルズの到着が6時41分なのですれ違うことは可能である。またこの時のドリフの出番はTHE BEATLES IN JAPAN : 50TH ANNIVERSARY EDITIONによるとブルージーンズの後で尾藤イサオの前だが上記の特集にはこの後6時53分前後にもドリフターズ→ブルージーンズの順にステージに上がった旨が記されている為、映像には残っていないがドリフターズの出番が存在したことになる。

「新生ドリフ」以降は歌謡グループとしての活動も顕著となり、コミックソングのほか、民謡軍歌等、日本で歌い継がれてきた曲の替え歌を多くレコードに吹き込む(ディスコグラフィーの項参照)。67年3月の「春だ若さだ、全員集合」で舞台初主演[11]。またこのころ東宝松竹日活から主演映画の話を持ち掛けられていた[12]、後に東宝松竹で主演映画を多数制作。

1970年に「第12回日本レコード大賞大衆賞」を受賞し、同年「ドリフのズンドコ節」で「第1回日本歌謡大賞放送音楽賞」をそれぞれ受賞している。「ズンドコ節」は、1969年11月1日発売、オリコン最高位2位、売り上げ枚数115万枚以上という、大ヒットを記録。他にも、数十万枚のシングルヒット、または10位以内にランクインした曲は4-5はある。その1970年には、他の民放などでもいくつかの賞を受賞をする。この年の『第21回NHK紅白歌合戦』に出場が内定していたが、加藤茶の交通事故により出場を辞退した[13]

後述の通り、新生ドリフになった後は、グループの活動はお笑いが中心となったが、音楽活動は各メンバーごとに継続されており、全く音楽活動を休止した訳ではなかった。1990年代以降は、加藤、仲本、高木が『こぶ茶バンド』を結成する形でバンド活動を再開している。

2001年12月31日の『第52回NHK紅白歌合戦』にて、ドリフは正式な出場歌手として初出場を果たした(メンバーが応援で出演したことは過去にもあった)。同年8月に放送された、『第33回思い出のメロディー』に出演したことがきっかけで選出となり、往年のヒットメドレーを披露した。
コメディアンとしてのドリフ

元々ドリフは純粋なバンドであり、お笑いとは程遠い存在だったが、桜井輝夫がリーダーになってからは、コミックの要素を音楽に取り入れるようになった。当時のドリフターズは出演の最初はメンバーが各ポジションでワンフレーズ演奏をして、いかりやの「全員集合!」の一声で全員が舞台前面に出てきてコントを始めていた。これが後のキャッチフレーズとして使われる「全員集合」の由来である。コントの中身もそれぞれの楽器を使った音楽がらみの物が多かった。そして新生ドリフになった後からは、グループの活動はお笑いが中心となっていった。

1970年代になると憧れていた先輩バンドである、「ハナ肇とクレージーキャッツ」に取って代わる形でドリフターズが人気になった。

お笑いとしては、グループを生かした色々なパターンを生み出す。特に『ドリフ大爆笑』の「もしもシリーズ」では、ボケと突っ込み以外の「呆然とするいかりや」で笑いを取るという新しいパターンを生んだ。いかりや自身は、自らのグループを「お笑いの能力は一流でない」と卑下し、新生ドリフ初期のライバルであるコント55号に対抗する意味で、アドリブ無しの徹底的に練られたストーリー作り、練習でカバーし、土曜8時戦争と呼ばれるお笑い番組の視聴率争いで、長年にわたって優位を保った。いかりやはペーソスではなくカラッとした笑いが生命と語っている[14]

志村が正式メンバーになる前後でチームの笑いのパターンは変化している。ドリフ再結成直後は高木ブーを中心にした笑いだったが、すぐに加藤茶を中心としたコントに変更され、のっぽ(権力者役のいかりや)、でぶ(無芸大食の高木)、めがね(風見鶏、インテリ役の仲本工事)、はげ(ふてぶてしいおじさん役の荒井)、ちび(いじめられ役の加藤)という、吹き溜まりの集団内での人間関係というチームワークで、加藤がオチを取っていた。それと同時に「加藤を中心に4人共いかりやからいじめられながらも表向きは従い、機会を見ては権力者であるいかりやに前述のキャラクターを生かしたそれぞれの方法で時には共謀して歯向かい、形勢がいかりやに戻るとその4人がそれぞれの個性をもった方法でばらばらになり、要領の悪いメンバー(加藤)だけがバレて犠牲になる」といった社会的な縮図を指摘する者もいる。時折、加藤といかりやとの権力争いの結果、リーダーの座が逆転したり始めから加藤がリーダーとなるパターンもあった[注釈 4]。また、音楽の要素を残し、笑いに取り入れている時代でもあった。

志村が入ってからは、まともでない役のメンバー(特に志村)に、いかりやが突っ込みを入れたり振り回されるという笑いのパターンになり、イントロの高木、つかみの仲本、オチの加藤、さらに加藤のオチよりパワーアップした奇天烈な行為をする志村という各々の順番でいかりやが突っ込みを入れていった。あるいは、金田一コントのように志村の独り舞台に近いものになり、加藤を含め他の四人は脇に回ることも多くなった。しかし、荒井の脱退から志村への交代で定着するまでには2年近くもの時間がかかった。この間、志村を前面に押し出そうと、他のメンバー、特にいかりやと加藤によるサポートがあった。

その後三枚目としての仲本も強調された。一方で志村はいかりやの演出を無視してアドリブでギャグを入れることがしばしば見受けられ、リハーサルでダメ出しをされても、実行してしまうこともあった。これは、「緻密なストーリーと演出に基づいたドリフコント」を崩すこととなったが、ハプニング時には他のメンバーもそれを乗り切るためにアドリブで対処したこともあった。

撮影用ではあるが、ケーキや鶏卵、スイカや牛乳などといった食べ物を粗末にするネタ、下品なコントが多く、また「金たらい落しや一斗缶で殴るなど、子供が真似ると危ない」などという名目の内容も含めてPTAの目の仇にされたが、メンバー以外の他人の誹謗や中傷をネタにすることはなく[要出典]、かつ素人いじりをしなかった[注釈 5]。また、体を張ったギャグや音楽ネタも多い。いかりやの著書によれば、いかりやが米兵相手にコミックバンドをしていた体験からこのような芸風を後々まで引き継ぐことになったという。

日本だけでなく、台湾などでも人気がある。

他の芸能人へも影響があり、『8時だョ!全員集合』、『ドリフ大爆笑』、テレビ朝日ドリフと女優の爆笑劇場』等の番組にゲスト出演した俳優、アイドル、歌手までもが、番組内では本来のイメージを越えた役作りやギャグをすることを、バーチャルなお笑いドラマやコント出演としてファンからも認められ、またドリフと一緒にコントをやりたいために自ら希望して演じる者も多数出てきた。そういったゲストからお笑いとしての個性を引き出され、新たな方向性や個性をも作っていった者も少なくない。また、実際に主に立ち回りながらしゃべって笑いを引き出すのはメンバーであっても、ゲストが笑いの中心であるように見せる企画力や技術もあった。


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