ザ・タイガース
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ファニーズは、さっそく大阪・難波にあったジャズ喫茶「ナンバ一番」の専属オーディションを受け、2月から週2日のステージを行う契約を結ぶ[9]。5人は、本格的な音楽活動のため大阪市西成区岸里のアパートで合宿生活に入る[10]。ナンバ一番ではビートルズ、ストーンズなどの曲を、英語で歌っていた。

その後、人気が出て出演回数も増加、5月に京都会館で開かれた「全関西エレキバンド・コンテスト」にローリング・ストーンズの「サティスファクション」で参加し、優勝した[11]。この賞金でバンドは揃いのユニフォームを新調する[12]。さらに、6月には「ナンバ一番」の人気投票で1位となる[13]。こうした人気に、東京に移る勧誘も複数持ちかけられた。東邦企画の上条英男によるもの(他のバンドに、岸部・森本・沢田の3人を加入させる話。沢田が即座に拒絶)、ザ・スパイダースによるもの(マネージャーが「ナンバ一番」に来店した際に「リーダーの田辺も話したいと言っている」と名刺を沢田に渡した)があったが、いずれも実現には至らなかった[14]。ザ・スパイダースについてはファニーズ全員がファンクラブ会員でもあり、当初喜んだもののその後音沙汰がなかったため、森本と沢田が上京して直接田辺に面会したが、田辺の反応は冷淡で発展することなく終わった[14]

6月には、ブルージーンズ内田裕也が「ナンバ一番」のステージを観覧し、ファニーズに「東京に来る気があるか」と声をかけたが[15]、その後3ヶ月ほど話は進展しなかった(この間、森本を除くメンバーはビートルズ日本公演の初日を観覧している)。そこで、リーダーの瞳が単身で上京して内田に面会し、メンバーを東京に呼ぶ約束を取り付ける[16]。9月には、内田らブルージーンズが所属していた渡辺プロダクション(通称、渡辺プロ、現在のワタナベエンターテインメント)のオーディションを受けることになった。10月に「ナンバ一番」で開催されたオーディションを経て、ファニーズは渡辺プロと正式に契約を結ぶ[16]。その後、「ナンバ一番」でさよなら公演、ファンクラブによる「お別れ会」をもって、関西での活動を終えることになる[17]
上京、「ザ・タイガース」としてテレビ出演

1966年11月9日、東海道新幹線で上京[18]。3日後、ポリドール・レコード(当時は日本グラモフォン、現在はユニバーサルミュージックに併合)のオーディションに合格し[19]、レコード会社が決まる。メンバーは世田谷区烏山町に用意された住宅に入居し、渡辺プロマネージャーの中井國二を加えた6人で合宿生活を始めた[20]

11月15日、初出演のテレビ番組『ザ・ヒットパレード』(フジテレビ系)収録当日、渡辺プロの制作部長から依頼を受けた番組ディレクターのすぎやまこういちにより、ザ・タイガースというバンド名が与えられた[19]。沢田は「大阪から来たわけ? じゃ、タイガースだ」(プロ野球の阪神タイガースにちなむ)とすぎやまから言われたと後年述べている[19]。当時アメリカ、カナダ、イギリス、日本などで人気だったアイドルグループ、モンキーズの存在を意識して動物名となったとする説もある[21]。すぎやま自身は1987年に「関西ってこともあったけど、なによりも初めて見たとき“若虎”って印象があったのね、彼らの動きとかにね」と証言している[19]。また、渡辺プロからの指示により、バンドのリーダーも瞳から岸部に変更された[19]

初のテレビ出演では、当時アメリカ本国において、モンキーズに次ぐアイドル人気となっていたパンク・ロックバンドであるポール・リヴィア&ザ・レイダーズ(英語版)の「KICKS(英語版)」を演奏[19]。出演時間はわずか30秒で、渡辺プロではなく内田裕也からすぎやまに売り込んでのものだったという。演奏時間がわずか30秒だったことについて内田は、すぎやまこういちに対して強い怒りを感じたという[19]。内田は、上京後すぐにメンバーを麻布のイタリア料理店「キャンティ」に連れて行った[22]。「キャンティ」は当時、文化・芸能人の集まるサロンのような場所で、メンバーはその後もしきりに出入りし、公私ともに影響を受けていくことになる[23]

内田の命で新宿ACB出演の際に、メンバーのニックネームと芸名が決められた[24]。岸部はリトル・リチャードのシングル「のっぽのサリー」に由来する「サリー」、瞳はキューピーに由来する「ピー」、森本は本名に由来する「タロー」とされた。3人とも従来からメンバー間で使われていた愛称だった(岸部と瞳は京都時代に自然につけられた)。一方、沢田は、女優ジュリー・アンドリュースに由来する「ジュリー」と自ら名付け、加橋は、トッポ・ジージョに似ていることから新宿ACB支配人の命名で「トッポ」と名付けられた[24]。また、芸名については、岸部は読みを変え(「しゅうぞう」から「おさみ」)、瞳と森本は表記を変えた。加橋は本名「高橋(たかはし)」の一文字を抜く形となった。沢田は内田による芸名(読みは「サワノイケン」)を拒否し、本名を名乗った[24]
1967年タイガースデビュー、人気爆発

1967年2月5日発売のシングル僕のマリー」(録音時点でのタイトルは「マリーの想い出」)でデビューする。前年12月の録音の際、曲を渡されたメンバーはそれまでの演奏曲との違和や失望を感じたという[25]。渡辺プロ側がタイガースのプロモーションに際してイメージしたのはモンキーズであった[25]が、セールスは伸び悩む。

だが、3月頃から人気が爆発し[26]、5月発売のセカンド・シングル「シーサイド・バウンド」は40万枚を超えるヒットとなった[27]。『シャボン玉ホリデー』などのテレビ出演でそれが加速し、従来よりも低年齢(中高生)にファン層が広がった[28]

一方、ジャズ喫茶では、内田と組んだ「内田裕也とタイガース」として前年12月から新宿ACBに出演し、ファニーズ時代と同じテイストの楽曲を演奏した[29]。1967年1月15日の第31回日劇ウェスタンカーニバルで、内田と尾藤イサオのバックを引き受ける条件で、内田の用意した衣装を着て1曲だけ演奏する[28]。これを契機にジャズ喫茶でのファンが増加していく。

当初、テレビは渡辺プロ、ジャズ喫茶は内田とマネジメントが分かれていたが[30]、ジャズ喫茶においても「ザ・タイガース」として扱われ、内田はプロデュースに近い立場となった[31]。後に、内田は渡辺プロと対立、第32回の日劇ウェスタンカーニバル前日の5月4日に内田は「キャンティ」経営者の川添夫妻の援助で渡仏した[32]


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