ザ・スミス
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 しかし、2009年9月にモリッシーは自身のファン・サイトTruetoyou.net上で「そんなポストカードを俺はこれまで書いたことがないし、解雇を知らせるポストカードをアンディの車に置いた覚えもない」と発言してこれを否定している[12]

ルークの代役として、ベースに短期間クレイグ・ギャノン(Craig Gannon)が入ったが、ルークはわずか2週間で復帰を認められた。ギャノンはザ・スミスにとどまり、リズム・ギターに転向した。ギャノンを加え5人で収録したシングル「パニック」と、さらにカースティー・マッコールがバッキングボーカルに入ったシングル「アスク」は1986年夏から秋にかけてリリースされ成功を収め、5人体制になったバンドはイギリスツアーも行った。ギャノンはツアー終了後の1986年10月にバンドを去っている。
4thアルバム『ストレンジウェイズ、ヒア・ウイ・カム』、そして解散

1987年は順調に始まった。シングル「ショップリフターズ」は年頭にリリースされ、子供たちに万引きを奨励するかのような歌詞に反発もあったものの、UKチャート12位に達した[8]

続いてバンド2枚目のコンピレーション・アルバム、『ザ・ワールド・ウォント・リッスン』がリリースされ、アルバムチャートで2位を記録した[8]

さらにザ・スミス2度目で最後の、チャート10位以内に入ったシングル「シーラ・テイク・ア・バウ」が続く。イギリス国外向けのコンピレーションアルバムとして、『ザ・ワールド・ウォント・リッスン』とほとんど同じ内容にシングル「シーラ・テイク・ア・バウ」とアメリカ未発売の『ハットフル・オブ・ホロウ』からの数曲を加えた『ラウダー・ザン・ボム』も発売された。

セールス的には好調が続いたが、メンバーの考え方の違い、特にモリッシーとマーの間の緊張が高まっていたことによってバンドは分裂の危機にあった。1987年8月、NME誌に掲載された「分裂に向かうスミス」(Smiths to Split)と題する記事をきっかけに、ついにマーがバンドを去ることが発表された。マーは当時この記事を、事実とは異なり、モリッシーの情報提供によるものと疑っていた[13]

マーの代わりのギタリストを募集するオーディションが行われ、アズテック・カメラのロディ・フレイムが加わるのではないかという憶測も当時はあったが、オーディションは成果なく終わった。9月には4枚目のアルバム『ストレンジウェイズ、ヒア・ウイ・カム』が発売されたが、このアルバム発売前にバンドは解散した。

『ストレンジウェイズ、ヒア・ウイ・カム』はイギリスでチャート2位を獲得したが、アメリカでは小規模な成功にとどまった。しかし「ガールフレンド・イン・ア・コーマ」の悪名高いプロモーションビデオ(長さわずか30秒)はMTVアメリカでローテーションされる成果を上げた。

このアルバムからはいくつかの曲が、初期のライブ、ラジオセッション、デモトラックなどをB面に組み合わされてリリースされた。翌1988年のライブ・アルバム『ランク』は、バンド解散後にもかかわらずUKチャート2位を記録した。
ザ・スミスのその後

1996年、ザ・スミスの4人は、裁判所で解散後初めて顔をそろえた。ドラマーのマイク・ジョイスは、作詞作曲者のモリッシーとマーに対して、ザ・スミスのレコーディングとライブからの利益のうちジョイスとルークにそれぞれ10%しか許可しなかったことを不服として調停を申し出ていた。

モリッシーとマーは、他の2人はいつも権利の分配に関して了解していたと主張したが、法廷はジョイスの訴えを認め、100万ポンド以上を遡及して受け取る権利があること、以後はザ・スミスの25%の権利を受け取る決定を下した。

モリッシーはこの決定に大いに不満で、後にこう述べている。「あの裁判はザ・スミスの生涯を安っぽく要約したストーリーだった。マイクはしゃべり続けていたが何も言わなかったのと同じだ。アンディは、名前も覚えてもらえない。ジョニーは、みんなを喜ばせようとしていたが誰も喜ばなかった。そして焼けるようなスポットライトの下にいたモリッシーは何度もこう言われたものだ、『よくも成功者になっていられるな』、『よくも活動できるものだな』と。僕にとってザ・スミスは美しいものだったのにジョニーが出て行って、マイクが壊したんだ。」[14]

モリッシーとマーは、近年のインタビューでは両者の関係に雪解けが見られそうな発言をしているが、両者とも再結成は頑として否定している。

2005年には、テレビ局VH1のバンド再結成番組がザ・スミスの再結成を試みたものの、モリッシーに接触できず断念した。

2006年には、モリッシー自身にもある音楽イベント主催者から巨額を提示され、再結成ライブを行うオファーがあった。彼は「金の問題ではない」と断ったことを明かし、「素晴らしい旅は終わったんだ。僕は続けたかったが(マーは)終わらせたかったんだ」と述べている[15]
人物と思想

ネオ・リベラリズムのマーガレット・サッチャー政権批判[16]、イギリス王室批判、バンド・エイド批判をおこなった。バンド・エイドを独善的と述べ、アフリカの貧困をサッチャーや女王に訴えるのではなく、もっぱら無職の音楽ファンから金を巻き上げているとして非難している。バンド・エイドについてこう述べたことは有名である。「ひどい曲だ。エチオピアの人々に大きな関心を持つようになれるのはいいが、この曲のせいでイングランドの人々の耳が毎日拷問を受けていることはまた別のことだ」[17]
アルバム・ジャケット

ザ・スミスはそのビジュアルも独特だった。モリッシーとラフ・トレードのアートディレクターであったジョー・スリーがデザインしたアルバムやシングルには、彼ら自身の姿は一切登場せず、その代わり二色刷りで映画ポップスのスターが印刷されていた。カバーに起用されたのはモリッシーの興味の対象で、例えば古い映画やカルト映画のスター(ジャン・マレージョー・ダレッサンドロテレンス・スタンプジェームズ・ディーン)などだった。イギリスの60年代のアイドルの写真を使用したこともあった。
ディスコグラフィ詳細は「ザ・スミスの作品」を参照
オリジナルアルバム

ザ・スミス』 - The Smiths (1984年
アルバムの雰囲気は全体に物寂しく、「スティル・イル」や「サファー・リトル・チルドレン」といった曲タイトルがそれを物語っていた。「サファー・リトル・チルドレン」は、1960年代にマンチェスターで起こり全英を震え上がらせたマイラ・ヒンドリーによる連続少年殺人事件(ムーア連続殺人)を題材にしたものである。その他明らかなことは、モリッシーが歌詞などの中でわざわざ多くの文学やポップカルチャーに言及していることである。インタビューでも彼のアイドル(アラン・ドロン、ジェームズ・ディーン、そして特にオスカー・ワイルド)について頻繁に認めているほか、歌詞の中でもささやかな引用を行っている。「プリティ・ガールズ・メイク・グレイヴス」というタイトルはジャック・ケルアックの小説『The Dharma Bums』の一節から採られている。こうした引用は、もともと読書好きな傾向のあったザ・スミスのファンを熱中させる要素となった。「リール・アラウンド・ザ・ファウンテン」や「ザ・ハンド・ザット・ロックス・ザ・クレイドル」は当時、ペドフィリアを示唆した曲ではないかという非難を浴びている。さらに『サファー・リトル・チルドレン』は、題材になった連続殺人の犠牲者の祖母がたまたまパブのジュークボックスで聴いたことから抗議がバンドに寄せられた。しかし曲自体は子供たちの面した悲劇に対し同情的なものであり、モリッシーは後に曲の中で名前に言及した犠牲者レスリー・アン・ダウニーの母アン・ウェストと友情を築いている[18][19]

ミート・イズ・マーダー』 - Meat Is Murder (1985年
前作以上に赤裸々で耳障りかつ政治的な歌詞が多く、特にタイトルトラック「ミート・イズ・マーダー」は菜食主義の主張が濃いものだった[注釈 7]。ほかにも王室に対する反発を歌った陽気な曲「ノーホエア・ファスト」、体罰の横行する学校生活を歌った「ザ・ヘッドマスター・リーチュアル」と「バーバリズム・ビギンズ・アット・ホーム」なども強い印象を残した。音楽的には、バンドはより成長しさまざまなスタイルへの挑戦を行っていた。「ラショーム・ラフィアンズ」にはマーはロカビリー風のリフを加え、「バーバリズム・ビギンズ・アット・ホーム」ではルークはファンク・ベースでソロを弾いている。アルバム発売前に、かつてシングルB面に収録した「ハウ・スーン・イズ・ナウ?」を先行シングルとして再リリースしたが、この曲は『ミート・イズ・マーダー』のイギリス盤には収録されなかったがアメリカ盤および1992年以後のイギリス盤では収録されている。

ザ・クイーン・イズ・デッド』 - The Queen Is Dead (1986年
アルバムは、彼らにとって典型的な曲とも言える辛辣で物寂しい曲「ネヴァー・ハッド・ノー・ワン・エヴァー」、従業員が上司に書いた辞職願の形式でラフ・トレードの社長ジョフ・トラヴィスに宛てたメッセージでもあるという見方もある乾いたユーモアのある曲「フランクリー、ミスター・シャンクリー」、物寂しさとユーモアの両面を合わせた曲「ゼア・イズ・ア・ライト」や「セメタリー・ゲーツ」などで構成されている。『ローリング・ストーン誌が選ぶオールタイム・グレイテスト・アルバム500』に於いて、218位にランクイン[20]

ストレンジウェイズ、ヒア・ウイ・カム』 - Strangeways, Here We Come (1987年
「ストレンジウェイズ」とはマンチェスターの王立刑務所の名前でもあった。同アルバムに収録された「ペイント・ア・ヴァルガー・ピクチャー」は、その後たくさんのコンピレーションが発売され、ザ・スミスの曲が何度も何度も再利用される将来をある意味予言した曲といえる。批評家からは様々な評価を受けたアルバムだったが、ザ・スミスのメンバーは4人ともこれをお気に入りのアルバムに挙げている[21]
シングル(UK)


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