ザ・スミス
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1985年2月11日、セカンド・アルバム『ミート・イズ・マーダー』が発売された。『ミート・イズ・マーダー』は結局、コンピレーションアルバムを除けばザ・スミス唯一のUKチャート1位に輝いたアルバムとなった[8]

アルバムの内容が前作以上に政治的だったように、モリッシーのインタビューも政治的な発言が増えより、論議を起こした。

続くシングル「シェークスピアズ・シスター」(ミート・イズ・マーダー未収録)はチャート的には成功とはいえず、その後7月に出したアルバムからカットされた唯一のシングル「ザット・ジョーク・イズント・ファニー・エニモア」も売れ行きは芳しくなく、チャートの50位にようやく入った程度であった[8]

9月に出したシングル「心に茨を持つ少年」(原題:The Boy With The Thorn In His Side)は、それまで拒んでいたプロモーション・ビデオを初めて収録した作品になったが、この曲は続くアルバムに大いに期待を持たせる出来であった[注釈 5][出典無効]。
3rdアルバム『ザ・クイーン・イズ・デッド』

1985年はザ・スミスにとって、スタジオでサード・アルバムの収録をしながら、イギリスとアメリカでツアーを続ける苛酷な1年だった。翌年、まずシングル「ビッグマウス・ストライクス・アゲイン」がリリースされ、間をおかずに1986年6月、アルバム『ザ・クイーン・イズ・デッド』が発売された。UKチャートでは最高2位となり[8]、音楽誌「SPIN」の1989年の特集「これまで制作された最高のアルバム」では第1位に選ばれた。その他NME紙やメロディ・メイカー紙など、数多くのロック誌や音楽出版物の行う「グレイテスト・アルバム」企画では、『ザ・クイーン・イズ・デッド』がしばしばトップ10にランクインしている。2006年6月には、NMEは全紙面を使って『クイーン・イズ・デッド』発売20周年特集を組んだ。また、同アルバム収録の「ゼア・イズ・ア・ライト・ネヴァー・ゴーズ・アウト」は活動中にシングルカットされたものではなかったにもかかわらず、2012年現在でも最もファンの支持を集める曲の一つである[9]

しかし、バンドにとって全てが順調というわけには行かなかった。ラフ・トレードとの契約を巡る紛争で、このアルバムは発売が大幅に遅れた[注釈 6]。また、メンバーはバンドの多忙なスケジュール、イギリスのメディアの口さがないゴシップ記事、アメリカでのレコード各社による契約争奪戦、その一方でのアメリカのセールスの不調などで燃えつきかけ、ストレスを抱えていた。

マーは後にNMEとのインタビューで、「当時のことは『不調』という言葉では半分も言い表せない。僕はものすごく病気だった。ツアーが完全に終わるまでにはちょっと…危険な状態だった。僕は自分を抑えられる以上の量の酒を飲んでいた」と語っている[10]。そのころ1986年初頭にはルークもヘロインによる問題でバンドを首になっていた。彼は車のフロントガラスに張られたポスト・イットで解雇通知を受け取った。文面は「アンディ ― 君はザ・スミスを去った。さようなら幸運を祈る。モリッシー[11]」というものだった。 しかし、2009年9月にモリッシーは自身のファン・サイトTruetoyou.net上で「そんなポストカードを俺はこれまで書いたことがないし、解雇を知らせるポストカードをアンディの車に置いた覚えもない」と発言してこれを否定している[12]

ルークの代役として、ベースに短期間クレイグ・ギャノン(Craig Gannon)が入ったが、ルークはわずか2週間で復帰を認められた。ギャノンはザ・スミスにとどまり、リズム・ギターに転向した。ギャノンを加え5人で収録したシングル「パニック」と、さらにカースティー・マッコールがバッキングボーカルに入ったシングル「アスク」は1986年夏から秋にかけてリリースされ成功を収め、5人体制になったバンドはイギリスツアーも行った。ギャノンはツアー終了後の1986年10月にバンドを去っている。
4thアルバム『ストレンジウェイズ、ヒア・ウイ・カム』、そして解散

1987年は順調に始まった。シングル「ショップリフターズ」は年頭にリリースされ、子供たちに万引きを奨励するかのような歌詞に反発もあったものの、UKチャート12位に達した[8]

続いてバンド2枚目のコンピレーション・アルバム、『ザ・ワールド・ウォント・リッスン』がリリースされ、アルバムチャートで2位を記録した[8]

さらにザ・スミス2度目で最後の、チャート10位以内に入ったシングル「シーラ・テイク・ア・バウ」が続く。イギリス国外向けのコンピレーションアルバムとして、『ザ・ワールド・ウォント・リッスン』とほとんど同じ内容にシングル「シーラ・テイク・ア・バウ」とアメリカ未発売の『ハットフル・オブ・ホロウ』からの数曲を加えた『ラウダー・ザン・ボム』も発売された。

セールス的には好調が続いたが、メンバーの考え方の違い、特にモリッシーとマーの間の緊張が高まっていたことによってバンドは分裂の危機にあった。1987年8月、NME誌に掲載された「分裂に向かうスミス」(Smiths to Split)と題する記事をきっかけに、ついにマーがバンドを去ることが発表された。マーは当時この記事を、事実とは異なり、モリッシーの情報提供によるものと疑っていた[13]

マーの代わりのギタリストを募集するオーディションが行われ、アズテック・カメラのロディ・フレイムが加わるのではないかという憶測も当時はあったが、オーディションは成果なく終わった。9月には4枚目のアルバム『ストレンジウェイズ、ヒア・ウイ・カム』が発売されたが、このアルバム発売前にバンドは解散した。

『ストレンジウェイズ、ヒア・ウイ・カム』はイギリスでチャート2位を獲得したが、アメリカでは小規模な成功にとどまった。しかし「ガールフレンド・イン・ア・コーマ」の悪名高いプロモーションビデオ(長さわずか30秒)はMTVアメリカでローテーションされる成果を上げた。

このアルバムからはいくつかの曲が、初期のライブ、ラジオセッション、デモトラックなどをB面に組み合わされてリリースされた。翌1988年のライブ・アルバム『ランク』は、バンド解散後にもかかわらずUKチャート2位を記録した。
ザ・スミスのその後

1996年、ザ・スミスの4人は、裁判所で解散後初めて顔をそろえた。ドラマーのマイク・ジョイスは、作詞作曲者のモリッシーとマーに対して、ザ・スミスのレコーディングとライブからの利益のうちジョイスとルークにそれぞれ10%しか許可しなかったことを不服として調停を申し出ていた。

モリッシーとマーは、他の2人はいつも権利の分配に関して了解していたと主張したが、法廷はジョイスの訴えを認め、100万ポンド以上を遡及して受け取る権利があること、以後はザ・スミスの25%の権利を受け取る決定を下した。

モリッシーはこの決定に大いに不満で、後にこう述べている。「あの裁判はザ・スミスの生涯を安っぽく要約したストーリーだった。マイクはしゃべり続けていたが何も言わなかったのと同じだ。アンディは、名前も覚えてもらえない。ジョニーは、みんなを喜ばせようとしていたが誰も喜ばなかった。そして焼けるようなスポットライトの下にいたモリッシーは何度もこう言われたものだ、『よくも成功者になっていられるな』、『よくも活動できるものだな』と。僕にとってザ・スミスは美しいものだったのにジョニーが出て行って、マイクが壊したんだ。」[14]

モリッシーとマーは、近年のインタビューでは両者の関係に雪解けが見られそうな発言をしているが、両者とも再結成は頑として否定している。

2005年には、テレビ局VH1のバンド再結成番組がザ・スミスの再結成を試みたものの、モリッシーに接触できず断念した。

2006年には、モリッシー自身にもある音楽イベント主催者から巨額を提示され、再結成ライブを行うオファーがあった。彼は「金の問題ではない」と断ったことを明かし、「素晴らしい旅は終わったんだ。僕は続けたかったが(マーは)終わらせたかったんだ」と述べている[15]
人物と思想

ネオ・リベラリズムのマーガレット・サッチャー政権批判[16]、イギリス王室批判、バンド・エイド批判をおこなった。バンド・エイドを独善的と述べ、アフリカの貧困をサッチャーや女王に訴えるのではなく、もっぱら無職の音楽ファンから金を巻き上げているとして非難している。バンド・エイドについてこう述べたことは有名である。「ひどい曲だ。エチオピアの人々に大きな関心を持つようになれるのはいいが、この曲のせいでイングランドの人々の耳が毎日拷問を受けていることはまた別のことだ」[17]
アルバム・ジャケット

ザ・スミスはそのビジュアルも独特だった。モリッシーとラフ・トレードのアートディレクターであったジョー・スリーがデザインしたアルバムやシングルには、彼ら自身の姿は一切登場せず、その代わり二色刷りで映画ポップスのスターが印刷されていた。カバーに起用されたのはモリッシーの興味の対象で、例えば古い映画やカルト映画のスター(ジャン・マレージョー・ダレッサンドロテレンス・スタンプジェームズ・ディーン)などだった。イギリスの60年代のアイドルの写真を使用したこともあった。
ディスコグラフィ詳細は「ザ・スミスの作品」を参照
オリジナルアルバム

ザ・スミス』 - The Smiths (1984年
アルバムの雰囲気は全体に物寂しく、「スティル・イル」や「サファー・リトル・チルドレン」といった曲タイトルがそれを物語っていた。「サファー・リトル・チルドレン」は、1960年代にマンチェスターで起こり全英を震え上がらせたマイラ・ヒンドリーによる連続少年殺人事件(ムーア連続殺人)を題材にしたものである。


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