日本でのデビュー作はこの『ポルノグラフィー』であり、各楽曲に付けられた奇抜な邦題[注釈 2]は当時のキュアーのパブリック・イメージを物語っている。 この時期、ロバートはスージー・アンド・ザ・バンシーズとキュアーの活動を掛け持ちしており、度々解散をちらつかせていたが、結局キュアーをとった。 スージー・アンド・ザ・バンシーズでは、ロバートはパーマネントなギタリストとしてアルバム(『ハイエナ (Hyaena
第3期 (1983年-1984年)
一方キュアーでは、フィクション・レコードのオーナー、クリス・パリーの勧めにより制作されたファンタジー三部作と呼ばれるシングル(「Let's Go To Bed」「The Walk」「The Lovecats」)がスマッシュ・ヒットし、日本発の企画盤『日本人の囁き』が作られたりもした。この三部作は、ロバートを『ポルノグラフィー』の悪夢から解放するのに貢献する。
このハードなスケジュールにより体調を崩したロバートは、キュアーとバンシーズのどちらを取るかの選択に迫られたが、結局キュアーを選ぶことになる。そして旧友ポール・トンプソン、ドラマーのアンディ・アンダーソン、『ポルノグラフィー』のエンジニアだったフィル・ソーナリーを新メンバーとして迎え、キュアーの本格的な活動を宣言した。
アルバム『ザ・トップ』リリース後の1984年10月には、中野サンプラザと大阪サンケイホールにて初来日公演(計3回公演)が行われている。[注釈 3] フィルの代わりにサイモンが復帰、またアンディの代わりとしてボリス・ウィリアムスが参加したこの面子で制作されたアルバム『ザ・ヘッド・オン・ザ・ドアー』は、新生キュアーの躍動感と充実感がある力作で、バンドの世界進出の足がかりとなる。 さらに続いてリリースされたアルバム『キス・ミー、キス・ミー、キス・ミー』は、キュアーというバンドが持つ魅力と可能性を凝縮したバラエティーあふれる内容で、世界中で熱狂的なヒットを記録、キュアーを英国のカルト・バンドから世界的なロック・バンドへと推し進めることになった。今作のツアーでは、アルコール中毒で演奏力に問題を抱えるロルに代わるキーボード奏者としてロジャー・オドネルが参加、ロバート、ポール、サイモン、ボリス、ロジャーというキュアーの黄金期のラインナップがここに勢ぞろいする。 さらに、この時期に二度目の来日を果たしている。しかし公演はなく、いくつかのTV番組に出演するに止まった[注釈 4]。 そして誰もが、今後のキュアーはこの路線を突き進んでゆくものと思っていたが、ロバートの出した回答は全く逆のものであった。アルバム『ディスインテグレーション』は原点回帰ともいえる、かつてのキュアーを彷彿とさせるような陰鬱とした内容で、いわゆる商業的路線からは逸脱していた。うろたえたレコード会社はロバートに再考を迫り、再三に渡り勧告をしたがロバートはそれを無視してリリースを強行した。ところが、レコード会社の心配をよそに『ディスインテグレーション』は全世界で300万枚を売り上げる大ヒットを記録、特にアメリカ大陸での人気が爆発し、キュアーをスタジアム級のモンスターバンドへと昇華させることとなった。 しかし、長期に渡るツアーはメンバーを疲弊させ、ロバートはツアー最終日・ロンドンのウェンブリー・アリーナで解散を匂わせる発言をした。 誰もがキュアーは終わったと思っていたが、ロバートは何事もなかったようにキュアーの活動を再開させる。ギター・ローディ出身のペリー・バモンテを新たに加え、初心に帰るべくライブハウス・ツアーを精力的に行ったことが新たな意欲を呼び覚ますなど、バンドに好影響をもたらした。シーンもキュアーを温かく迎え入れ、1990年にはブリット・アワードの「Best British Music Video」に「Lullaby」が選ばれ、翌1991年にはMTVアンプラグドに出演、さらにブリット・アワードの「Best British Group」に選出される。そして満を持してリリースされたアルバム『ウィッシュ』は全英1位、全米2位を記録する大ヒットになり、キュアーは名実共に世界的なトップ・バンドとなる。 ポールとボリスが脱退し、黄金期は終焉を迎える。ロジャー・オドネルを復帰させ、ジェイソン・クーパーをオーディションを経て加入させるが、かつてのバンドらしさはなく、ロバートのワンマン的な印象は否めなくなる。この面子での初アルバム『ワイルド・ムード・スウィングス』が商業的に失敗すると、ロバートは徐々にキュアーに対する意欲を失って行き、次のアルバム『ブラッドフラワーズ』リリース時には公式に解散を宣言。レコード会社もラスト・アルバムとして売り出すが、その完成度の高さと売り上げ好調に気を良くしたロバートは、キュアーというバンドの可能性を再認識し、解散宣言をメディアのせいにして無かったことにした。また、度々来日を示唆する発言を行うが、実現することは無かった。 これまでの活動の集大成ともいえる、暗黒三部作(『ポルノグラフィー』『ディスインテグレーション』『ブラッドフラワーズ』)を全曲収録したライブDVD『トリロジー・ライヴ』をリリースして長年来の『ポルノグラフィー』期の悪夢と折り合いをつけたロバートは、いよいよ念願のソロ活動を行おうとしていたが、スリップノットやコーンで高名なプロデューサーであるロス・ロビンソンに説得され、通算12作目のアルバムの制作を決意。こうして完成したアルバムは結成26年目にして初のセルフタイトルが冠されたが、皮肉にもこれが10年続いた史上最長ラインナップの最後のアルバムとなった。また、この頃から若いバンドたちからのリスペクトが相次ぎ、ロバートは多くのコラボレーション作品に積極的に参加するようになる。 アルバム『ザ・キュアー』にて精神的な若返りを果たしたロバートは、バンド内に変革を起こすために10年在籍したロジャーとペリーを脱退させ、ポールを再加入させた。10年振りに4人組となったキュアーは世界各地を回りながら、13枚目となるアルバムのレコーディングを断続的に続けていた。また、ツアーの一環で1984年以来23年ぶりに来日を果たし、フジロックフェスティバル2007にて堂々たるパフォーマンスを披露。2008年5月からは13作目のオリジナル・アルバムにちなみ、4ヶ月連続で毎月13日にEPをリリース。さらに9月には、フォロアーたちによるリミックスEPをリリースした。そして10月に満を持して4年ぶりとなるアルバム『4:13 ドリーム』を発表。 2011年、バンドは『フェイス (信仰)』リリース20周年を記念して、デビュー・アルバム『スリー・イマジナリー・ボーイズ』、セカンド・アルバム『セブンティーン・セコンズ』を加えた初期3作の収録曲を全曲演奏する「The Cure "Reflections"」公演をシドニーで実施。この企画にはギターのポールが不参加ながら、ロジャーとロルというかつて在籍した新旧のキーボード・メンバーが同時出演してバンドとの久しぶりの共演を果たした。同年9月ワイト島で行われたロック・フェス「ベスティヴァル」でのヘッドライナー公演を経て、11月には、ロジャーが正式メンバーとしてバンドに再々加入することが発表され、5年ぶりにキーボード奏者がバンド内に復帰。これと入れ替わる形で、ポール・トンプソンは再脱退となった。 2012年にはデヴィッド・ボウイのティン・マシーンのメンバーであり、「Wrong Number」でコラボレーションしたギタリストのリーヴス・ガブレルスを新たなメンバーに加えて、バンドは5人体制となった。以降はライブ活動を活発化させており、レディング&リーズやロスキルド、ロラパルーザといった世界中の巨大フェスでのヘッドライナーを歴任しながら、精力的なワールド・ツアーを展開、2013年と2019年にはフジロックフェステバルにおいてヘッドライナーを務めている。 2019年には、ロックの殿堂入りを果たした[7]。 ザ・キュアーが少年期に大きく影響を受けたのは、ビートルズ[8]、 ジミ・ヘンドリックス[9]、デヴィッド・ボウイ[10]、 ニック・ドレイク[11]、バズコックス[12]、スージー・アンド・ザ・バンシーズ[13] やジョイ・ディヴィジョン[14]。 バンドの創始者で中心人物。全ての楽曲の作詞と、大半の作曲を手掛ける。長年の恋人、メアリーと1989年に結婚、現在も仲睦まじく暮らしている。デビュー当時は繊細な文学青年風であったが、『ポルノグラフィー』の頃から変化し始め、1984年の「The Caterpillar」以降、ボサボサの髪、真っ黒なアイシャドウ、三白眼、真っ赤な口紅といった姿になった。また、1985年頃から太りだし、時々ダイエットしてはリバウンドで前より体重増を繰り返している。英国のカルト・ヒーローであり、その唯一無二な存在は、世界中にフォロワーを増やし続けている。 緊張感あるバンドサウンドの核とも言えるベーシスト。ロバートに次いで多くの作品のレコーディングに参加している。ストラングラーズのジャン=ジャック・バーネルに影響を受けたというダイナミックなベースプレイが特徴。
第4期 (1985年-1989年)
第5期 (1990年-1993年)
第6期 (1994年-2000年)
第7期 (2001年-2004年)
第8期 (2005年-2009年)
第9期 (2010年-)
彼らの音楽的な影響
メンバーロバート・スミス(2012年)
ロバート・スミス(Robert Smith
サイモン・ギャラップ (Simon Gallup
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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