ザントフォールト・サーキット
[Wikipedia|▼Menu]
しかし、第一次世界大戦(1914年 - 1918年)を機にその隆盛は終わりを迎え、1925年に同市の市長となったアンリ・ヴァン・アルフェン(オランダ語版)は観光業の立て直しを目指し、フランスの海辺のリゾート地で開催され人気を博していた自動車レースに着目し、導入を図った[W 8][注釈 4]ザントフォールト市街地サーキット(1947年)

1930年代に入るとまず市内でオートバイによる市街地レースが開催されるようになり、1939年6月3日にザントフォールト市街地において四輪の自動車レースが初めて開催され、大成功を収めた[W 8][W 9]。この成功をきっかけとして、ヴァン・アルフェンは常設サーキットの建設実現に向けて全力を傾けるようになる[W 10][W 8][W 9]

その矢先、1939年9月にポーランドに侵攻したナチス・ドイツは、翌年5月にオランダも制圧し、ザントフォールト市もドイツ軍の占領下に置かれた[W 8]。そんな状況下にあってもヴァン・アルフェンはサーキット建設計画を進め、市が占領された同年にザントフォールト市北東の砂丘地帯に112ヘクタールほどの土地を確保し、翌1941年にはその土地の四方を「道路」で囲む建設計画を立て、その道路は戦勝記念のパレードを行うためのものだとドイツ軍の司令官を説得して、ドイツ軍の「連絡道路」という名目で建設を進めた[W 10][W 8][W 11][注釈 5]。この道路が後にサーキットのメインストレートとなる[W 12]

ドイツ人の不興を買ったヴァン・アルフェンは1942年をもって市長を辞職することになったが、1945年に終戦すると市長に復帰し、海岸防御(英語版)を図ったドイツ軍によって建物が破壊され塹壕有刺鉄線が張り巡らされた都市の再建を進めるとともに、サーキットの建設計画を再開した[W 8]。戦後直後にもかかわらずサーキット建設が優先項目のひとつとなったのは、「(市民以外も含めた)オランダ人たちのリラクゼーションの場としてのザントフォールト」という文化的な価値を考慮してのもので、これは市議会の方針にも即したものだった[W 8]。1945年9月には建設計画が実行に移され、国内のオランダ自動車クラブ(オランダ語版)(KNAC)やオランダモーターサイクリスト協会(オランダ語版)(KNMV)といった団体と協力しつつ、国外の協力者たちとも連絡を取り、1946年にはイギリス人ドライバーのサミー・デイヴィス(英語版)からコースレイアウトについての助言を得た[W 8](→#設計者)。

1947年11月14日、ザントフォールト市議会はサーキット建設の予算を承認し、同月19日には市が属する北ホラント州もサーキット建設を認可した[W 8][注釈 6]

そうして、1948年8月7日にザントフォールト・サーキットは全長およそ4.193 kmのサーキットとして完成し、同日にこけら落としとなる自動車レースが開催された[W 8]。8月28日にはオランダモーターサイクリスト協会(KNMV)によってオートバイレースも開催された。開業当初は一部の区間は普段は公道として使われていたが、そうした道路も徐々に公道としての役目を解かれていき、完全なクローズドサーキットとなった[W 12]

1952年にはF1のオランダグランプリが初めて開催され、以降、オランダグランプリの開催サーキットとして定着し、1985年まで開催が続けられた。
サーキットの凋落(1980年代)

1970年代に入るとサーキットではたびたび死亡事故が発生し、その主要な原因であるF1の高速化に対応するため、1970年代を通して安全対策のための改修が続いた。そして、度重なる改修工事はサーキットの財政を圧迫し、サーキットの閉鎖がたびたび検討されるようになった[W 12]。加えて、1970年代から1980年代にかけてはモータースポーツ界全体で騒音問題が持ち上がり、ザントフォールトも例外ではなかった。サーキットの所有者であるザントフォールト市議会に対して市民からの苦情が多く寄せられるようになり、1982年に市議会ではサーキットの閉鎖が正式に提起された[W 12]


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:173 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef