西暦紀元前1800年以前の新石器時代、既にヘルブルン山地、カプツィーナ、ラインベルクに人類の足跡が見られ、青銅器時代にイリュリア人がピンツガウやポンガウの渓谷で鉱石を採掘していたことが推測される。鉄器時代にはザルツブルクの人々は岩塩の採掘を行っており、その後のハルシュタット文明につながっている。ザルツカンマーグートのバート・イシュルの南52kmにあるハルシュタットでは、紀元前10世紀頃のケルト人の墓地と埋蔵品が発見され、高度な文明が築かれていた事が判明している。
紀元前14年、ローマ軍がアルプスを越えて侵入する。クラウディウス帝の時代には属州ノリクム(現在のオーストリア)の各地に都市が築かれ、ローマ文化の花が開いた。ザルツブルクの原型である古いケルト人の町はユヴァウムあるいはユリクムと呼ばれていたが、この町もローマ文化の影響を受けた。また、ユヴァウムはイタリアとバイエルンを結ぶ街道と、ヴェルスを経てリンツに至る街道の分岐にあたる交通の要衝ともなった。 476年、ローマ人は侵入した東ゴート族を前にして撤退し、ノリクムを放棄。ユヴァウムはゲルマン民族により占領され略奪された。西ローマ帝国のゲルマン系雇兵隊長オドアケルの時代のことである。
中世
ザルツブルクは798年に大司教区に昇格する。カランタニア地方を中心とするスラブ人地域への宣教活動を成功させ、アギロルフィング家歴代バイエルン公や諸貴族による土地寄進合戦によって、大司教領有地は南はドラウ川まで、西はツィラー渓谷とイン川まで、東はハンガリー(バラトン湖)まで拡大した。キリスト教と手を携えての東方への拡張は、907年にマジャル人との戦いで大司教テオトゥマール1世が戦死し、終焉を迎えた。
ザルツブルク最初のドームは774年に前期ローマ建築で建てられた。次の代の司教のヴィルギルが聖堂を建て、その後の図書館や学校の基礎となった。ザルツブルクの2度目のドームは1181年頃に後期ローマ様式の建築で造られた。アルプス以北では唯一の身廊が5つあるバシリカ式の建築でドイツ皇帝聖堂との混合形式である。領主司教がこのように優れた建築物を造る事が出来たのは、教会の所有地とハラインの岩塩採掘とタウエルンの金採鉱での収入が自由に使えたからである。
ホーエンザルツブルク城は1077年、神聖ローマ皇帝ハインリヒ4世と教皇グレゴリウス7世の間に起こった聖職叙任権闘争のさなか、大司教ゲープハルト1世が皇帝派に対抗すべく建築した防衛施設である。ホーエンザルツブルク城は1500年頃にレオンハルト・フォン・コイチャッハ大司教の下で強固にされた。
1147年 - 大司教エーバーハルト1世(英語版、ドイツ語版)は大司教区の叙任権争いで教皇側に就き、皇帝側であるバイエルンはザルツブルクへの影響力を失った。
1167年 - 神聖ローマ皇帝フリードリヒ1世(赤髭公)側についたプライン伯はザルツブルクに放火するも占領には至らず。
1200年 - エーバーハルト2世登位。教皇支持をやめ皇帝フリードリヒ2世を支持。域内にそれまでのグルクに加えキームゼー、ラヴァント、セッカウの直属司教区(アイゲンビストゥム:大司教が直接叙任権をもつ司教区)を設置する。彼はフリードリヒの元で外交および帝国国制改革に加わり、神聖ローマ帝国内の聖俗領主権を拡大する帝国法の起草に参画する。内政では世俗貴族のお家断絶に乗じ教会守護職権を回収、世俗支配権を強化する。さらに皇帝からルンガウ、ヴィンディシュ・マトライなどの領主権を与えられ、支配領域は劇的に拡大する。彼によって「大司教区」は名実共に「領邦」となった。よってエーバーハルト2世は「領邦ザルツブルクの父」と呼ばれている。
1270年 - フリードリヒ2世・フォン・ヴァルヒェン(ドイツ語版)が大司教になる。フリードリヒはハプスブルク家の始祖ルドルフ1世に忠実な、力ある協力者であった。
近世詳細は「ザルツブルク大司教領」および「en:Archbishopric of Salzburg」を参照テューリンゲンからバイエルン西部、バーデン=ヴュルテンベルク、アルザス、スイス、南北チロル、ザルツブルクにかけて波及した農民戦争
1525年 - ドイツ農民戦争が起り、ホーエンザルツブルク城が包囲される。神聖ローマ帝国マクシミリアン1世の元官房長(Kanzler)であった枢機卿マッテウス・ランク大司教はシュヴァーベン同盟軍を使って排除した。
1541年 - マッテウス・ランク大司教に批判的な立場を取り、農民戦争期にサルツブルクを離れていた医師パラケルススは、大司教の死に合わせてザルツブルクに戻るが、水銀中毒で死亡。聖セバスティアン墓地に葬られた。
大司教ヴォルフ・ディートリヒ・フォン・ライテナウ(英語版、ドイツ語版)(在位:1587年 - 1612年)は、イタリアのメディチ家と縁戚関係にあり、ザルツブルクの「小ローマ化」を目指していた。独裁政治を推し進めた大司教はユダヤ教徒の町娘の美女ザーロメ・アルト(サロメ・アルト)(英語版、ドイツ語版)のために1606年にアルテナウ小城(後のミラベル宮殿(英語版、ドイツ語版))を造り、15人の子供をもうけてもいる。ライテナウは製塩権をめぐってバイエルン公マクシミリアンと争い、敗れて1612年に退位させられる。その後ホーエンザルツブルク城に幽閉され、5年後の1617年にその牢獄で死亡した。
次の大司教マルクス・ジッティクス・フォン・ホーエネムス(英語版、ドイツ語版)(在位:1612年 - 1619年)は、1613年から1619年にかけてイタリア人の宮廷首席建築家サンティノ・ソラーリに夏の離宮ヘルブルン宮殿を造らせている。ソラーリは新大聖堂、大学、聖ペーター修道院教会、カプツィーナー教会、フランツィスカーナー教会などを手掛け、現在のザルツブルク市の町並みを作り上げた。イタリア・バロックからオーストリア・バロックへの変化をもたらしたのは、17世紀の終りのフィッシャー・フォン・エルラッハ(在位:1656年 - 1723年)の仕事である。