ザリム・シン
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ルーカスの「前と同じ悪役を使いたくない」との考えからナチスを敵にすることを避けるが、同じ時代設定でナチスを悪役として使わないようにする動機づけが思いつかなかったことから、物語が前作の前日譚と設定された[19]

ルーカスは当初、万里の長城でバイクに乗ったインディ・ジョーンズがチェイスするシーンを思いついたことで中国を舞台にしようとしたが、中国当局から撮影許可がおりなかったため、舞台を置き換えることとなる。最終的に、舞台はインドの寺院となった[17][20]

ルーカスは、この映画を本当に恐ろしいものにしようと児童奴隷制黒魔術人身御供などに専念するカルト宗教やタギーのアイデアを思いついた。スピルバーグは後に「ルーカスがアイデアを持ってきた。私の仕事と課題は、この物語の暗さとコメディのバランスを取ることだと思った」と語っている[21]

具体的なアイデアが固まった後、前作と同じローレンス・カスダンに脚本のオファーがいくが、カスダンは「アイデアがひどい」と感じたことでこれを辞退[20]。ルーカスは、『アメリカン・グラフィティ』で交友があったウィラード・ハイクグロリア・カッツを雇った。最初の会議でルーカスがアイデアを提示した後、ルーカス、スピルバーグ、ハイク、カッツで協力して大まかなスクリプトを作成した。

スピルバーグは、もともと前作のヒロインであるマリオン・レイヴンウッドを再登場させたいと考えていたが、この案は頓挫[15]。ルーカスは、インディの新たな相棒に処女の若い王女を登場させるアイデアを出すが、三人はそれに反対[22]。相棒は10歳の中国人の男の子に変更され[23]、インディの冒険に巻き込まれるマリオンに近い立ち位置を持つ女性を登場させることが決定した。また、ルーカスの「暗い作風にする」との意向から、前作に登場したサラーとマーカス・ブロディは未登場にすることが決まった。

アイデア会議の際、4人はカルトな要素を観客へどう魅せるか熱心に話したという。ハイクとカッツはこれに虎狩りを使うことを提案したが、スピルバーグの「虎狩りをするほど長くインドに滞在するつもりはない」との言葉で却下。彼らは最終的に、虫やサルの脳みそなどを食べる夕食のシーンを作ることを決定した。カッツは後に「スティーブとジョージは子供のようで、いかにグロテスクな場面を作ろうかと考えていた」と述べている[24]

1982年5月、ルーカスは、ハイクとカッツへ脚本に採用するようにと20ページの草稿を手渡した[17]。これは、トロッコの追跡や上海への旅、銃撃から身を守るためにゴングを使用するインディなど、前作でカットされた脚本内容を取り入れたものだった。その後もルーカスは、「脚本作成に役立つように」とテープに録音された会話を基にした500ページの草稿をハイクとカッツに送りつけており、第一稿はわずか6週間である1982年8月初旬に完成した。スピルバーグはこの頃、『ジョーズ』を監督したが続編である『ジョーズ2』では監督を辞退しており、ルーカスは「インディにも同じことをするのではないか」と心配していたらしく、カッツは後に「ルーカスは彼が監督することを必死に望んでいました。私たちは、彼を保持できるように、本当に、本当に速くそれを行うように多くのプレッシャーにさらされていました」と当時を回想している[25]

その後、9月までに第二稿が完成。プリプロダクション中に、ルーカスによる仮題「Temple of Death(直訳:死の神殿)」を「あまりにも暗すぎる」と考えたスピルバーグの提案で、正式題「Temple of Doom(直訳:破滅の神殿)」に変更された[23]。その後、1983年3月から4月にかけて、ハイクとカッツは最終的な撮影台本の書き直しを同時に行い、脚本が完成した[17]
キャスティング

ショート・ラウンドのキー・ホイ・クァンは、ロサンゼルスのチャイナタウンで行われたオーディションで抜擢された。当時のキーは難民出身だったことから英語があまり読めず、インディとポーカーをする場面など即興劇で撮影された[26]
撮影ロケでのスピルバーグとラトナム(1983年、スリランカ)

撮影は1983年4月に始まった[27]

ロケ撮影に関して、作中で描かれる奇妙な食文化や邪教信仰などインドヒンドゥー教に対する偏見や人種差別に関わる内容が多かったため、当初の予定地だった北インドアンベール城での撮影をインド政府に拒否された。このため、スリランカキャンディでの撮影を余儀なくされ、村人役のエキストラたちもシンハラ語を話している。

吊り橋の設置には、当時ロケ地付近でヴィクトリア・ダム建設のため滞在していたイギリス人のグループが雇われた[17]

撮影中に多くの問題も起こったが、8月26日、スピルバーグはスケジュールと予算どおりに主要な撮影を終えた[27]
特撮

作品の「ジェットコースター的イメージ」を決定付けるトロッコのチェイスシーンでは、ミニチュアが多用された。走行中のトロッコを捉えるロングショットのほぼ全てがミニチュアであり、フィル・ティペットによるストップモーション・アニメーションも一部使用されている。

ILMでは視覚効果の光学合成にビスタビジョン方式を採用しているが、いくつかのシーンではトンネル状の模型セットを通常のビスタビジョン・カメラで移動撮影出来ず、ニコン製のスチルカメラを改造して使用している。

宮殿出口の断崖絶壁は、インディたちの立っている場所以外のほとんどがマット・ペインティング(ILMのクリス・エヴァンスの作品)である。その前後の水が押し寄せる所から、インディー達の輪郭が青っぽくなっているのは、マット・ペインティングを使用しているためである。
エピソード

ハリソン・フォードは、インディがゾウに乗る場面の撮影中に負った怪我が原因で、重度の椎間板ヘルニアに苦しんだ。フォードが休憩中に休むための病院のベッドがセットに持ち込まれ撮影を続行したが、ルーカスはフォードが無理をして映画の完成を目指していることを感じ、スケジュールが切迫していたが撮影を一旦停止。フォードは回復のために病院に運ばれた[27]。その後の5週間は、スタントの場面を中心に撮影を行った[28]

インディの名前がルーカスの愛犬に因んで名付けられたように、ウィリーはスピルバーグの愛犬から、ショート・ラウンドはハイクの愛犬から因んで名付けられた[17]

宣教師役でシド・ガニス、ルーカス、アンソニー・パウエルが、空港の旅行者役でフランク・マーシャルとスピルバーグがカメオ出演している。

前作と同じく荒唐無稽な作品になることから、「観客に理屈を考える暇を与えない」ほどテンポの良さを目指したという。そのため、最初は約115分の作品となったが、試写でルーカスとスピルバーグは逆に「速すぎる」と感じたため、観客の「呼吸の余地を元に戻す」場面を加えたりアクションを少し遅くするなどして、上映時間は118分となった[29]
評価

1984年の公開後、興行は成功したが評価は賛否両論であった。その後も、その優れた作品内容と共に論争と問題のあるコンテンツとして知られている[30]

ロジャー・イーバートはこの映画に「レイダースより明るくエキサイティングで、奇妙で、間抜けで、ロマンティックなアドベンチャー映画であり、続編というよりも対等な作品であると高く評価しています」と評している[31]ポーリン・ケイルは「この映画でスピルバーグがやっているような方法でスリルと笑いを融合させた人は誰もいない」と述べ「私がここ数年見た中で最も純粋に楽しいフィジカルコメディである」と評した[32]

一方で、ピープル誌のラルフ・ノヴァクは「親が幼い子供にこの心的外傷を与える映画を見せてはならない。それは映画を使った児童虐待になるだろう」と不満を漏らし、「ハリソン・フォードでさえ、クアンを平手打ちし、キャプショーを虐待している。映画内にヒーローはいません。スティーブン・スピルバーグとジョージ・ルーカスという悪役が2人いるだけです」と低評価を与えた[33][34]


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