ザクセン選帝侯領
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ザクセン=ヴィッテンベルクのアスカーニエン家1422年に絶えると、神聖ローマ皇帝ジギスムントはザクセン選帝侯位とその領土をヴェッティン家マイセン辺境伯だったフリードリヒ1世に与えた。ヴェッティン家は1089年にマイセン辺境伯領を、1247年テューリンゲン方伯領を獲得していた。このためマイセン辺境伯領、テューリンゲン方伯領がザクセン選帝侯領と同君連合を結ぶことになり、以後は3者が一纏めにされて「ザクセン」と呼ばれるようになる。

フリードリヒ1世の孫の選帝侯エルンストアルブレヒト3世(勇敢公)の兄弟は、1485年8月26日のライプツィヒ協定(英語版)により、ヴェッティン家の領土をエルネスティン系アルベルティン系に分割した。エルネスティン家の始祖である兄の選帝侯エルンストはザクセン=ヴィッテンベルク公国と選帝侯位、及びテューリンゲン方伯領を確保し、アルベルティン家の始祖である弟のアルブレヒト3世はマイセン辺境伯領を与えられた。16世紀に選帝侯位及び領土の大半を没収されるまでは、エルネスティン家がアルベルティン家に対し圧倒的な優位を誇っていた。
宗教改革ザクセン選帝侯フリードリヒ3世

16世紀に始まったプロテスタント運動は、ザクセン選帝侯の保護下で推進されることになる。ザクセン選帝侯フリードリヒ3世(賢公)は1502年ヴィッテンベルク大学を創設し、1508年アウグスティノ会の修道士マルティン・ルターを同大学の哲学教授、およびヴィッテンベルク城内教会の説教師に任命した。1517年10月31日、ルターは95ヶ条の論題を教会の扉に張り付け、贖宥状の販売などのローマ・カトリック教会の慣行を批判し、いわゆる宗教改革を始めた。フリードリヒ3世は当初はルターの主張の支持者にはならなかったが、ルターを自分の保護下に置いた。選帝侯のとりなしで、ルターは1518年教皇レオ10世に召喚を受けることが出来たし、1521年のヴォルムス帝国議会出席の際も選帝侯はルターに皇帝からの安全通行の保障を取り付けてやった。ルターがヴォルムスで帝国アハト刑を科せられると、フリードリヒ3世はルターをテューリンゲンのヴァルトブルク城に匿った。

ルターの教説は最初にザクセンで広まった。1525年、フリードリヒ賢公は亡くなり、弟のヨハン(不変公)が後を継いだ。ヨハンは既に熱心なルター派の信徒で、教会に対する自らの権威を行使して、領内の教会にルター派の宗教信条を採用し、カトリックの宗教信条を守る聖職者を追放し、ルターの考案した典礼を行わせた。ヨハンは1531年、宗教改革に反対する神聖ローマ皇帝カール5世の圧迫に対抗して共同でプロテスタントの大義を守るため、他の大勢のプロテスタント諸侯と一緒にシュマルカルデン同盟を結成した。

1532年にヨハンが死ぬと、選帝侯位はその長男のヨハン・フリードリヒ(寛大公)に受け継がれた。ヨハン・フリードリヒは父と同様にシュマルカルデン同盟の指導的諸侯の一人であり、1542年ナウムブルク司教領を占拠し、マイセン司教領とヒルデスハイム司教領を攻撃して同司教領の世俗財産を強奪した。ザクセン選帝侯領ではカトリック信仰は厳しく弾圧され、カトリックの教会や修道院は略奪の対象になった。しかしヨハン・フリードリヒは1547年4月24日、エルベ河畔のミュールベルクの戦い(英語版)で皇帝カール5世に敗れ、捕虜となった。5月19日のヴィッテンベルクの降伏(英語版)文書の調印により、ヨハン・フリードリヒはザクセン選帝侯位及びザクセン=ヴィッテンベルク公国を、皇帝与党であるアルベルティン系のザクセン公モーリッツに譲渡させられた。1485年のライプツィヒ条約以後のザクセン1547年のヴィッテンベルクの降伏以後のザクセン

ヴィッテンベルクの降伏後、エルネスティン系ヴェッティン家に残された領土はテューリンゲン方伯領のみであり、それも分割相続の繰り返しのために微細な小公国の群れへと転落した。テューリンゲンの小公国群は第一次世界大戦直後のドイツ革命で最終的に消滅した。1918年の革命まで残存したのは、エルネスティン家嫡系のザクセン=ヴァイマル=アイゼナハ大公国、及びザクセン=マイニンゲンザクセン=アルテンブルクザクセン=コーブルク=ゴータの3公国であった。

アルベルティン系ザクセン公国では、1500年のアルブレヒト3世の死後は長男のゲオルク(髭公)が後を継いだ。ゲオルクはルター派教会の強大な敵対者であり、カトリック教会の利益を図って従兄であるエルネスティン系のザクセン選帝侯達に、ルターに加担しないよう執拗に説得を図った。しかしゲオルクの後継者で弟のハインリヒ4世(敬虔公)は妻の影響ですでにプロテスタントに改宗しており、アルベルティン系ザクセン公国(マイセン辺境伯領)でもカトリック教会体制は廃止された。

ハインリヒ4世の息子で1541年に家督を継いだモーリッツは、宗教改革期のドイツにおいて最も著名な人物の一人である。モーリッツは熱心なプロテスタント信徒でありながらも、自らの支配領域を拡大する野心を抱いてカール5世の与党となり、シュマルカルデン同盟に敵対した。1547年のヴィッテンベルクの降伏により、モーリッツはザクセン=ヴィッテンベルク公国とザクセン選帝侯位を獲得し、ザクセン選帝侯領はヴェッティン家のアルベルティン系のもと、新たにザクセン=ヴィッテンベルクとマイセン辺境伯領から構成されるようになった。しかしモーリッツは神聖ローマ帝国のプロテスタント諸侯の頭目になる野心に突き動かされ、エルネスティン系からテューリンゲンを奪い取ることを許されなかった不満も手伝って、皇帝の陣営から離反した。

モーリッツは1551年フランスアンリ2世と同盟を結び、ロレーヌ地方のヴェルダントゥールメッスの3司教領(英語版)をフランスに譲渡し、反皇帝派の諸侯達と結んでカール5世に対する陰謀を計画した。モーリッツの謀反で窮地に陥ったカール5世は翌1552年パッサウ条約によりプロテスタント領邦に信教の自由を認めた。

モーリッツは1553年に32歳でブランデンブルク=クルムバッハ辺境伯アルブレヒト・アルキビアデスとの戦いで戦死(第二次辺境伯戦争)、弟で後継者のアウグストはメルゼブルク(英語版)、ナウムブルク及びマイセンの司教領を廃止し、自らの領土に組み込んだ。1561年に最後のカトリックのメルゼブルク司教が死ぬと、カール5世の弟フェルディナント1世は次の司教を任命することを要求した。アウグストはこれに対して自分の嫡男アレクサンダー(Alexander von Sachsen)を司教区監督者に任命し、息子の死後は自らが同司教区の監督者となった。アウグストは他の司教領でもカトリック信徒の司教が死ぬごとに、司教区を廃止してカトリック信徒の宗教活動を禁じた。
三十年戦争1620年、皇帝の治めるボヘミアの都市バウツェンを包囲する選帝侯ゲオルク1世

アウグストとその息子クリスティアン1世の下で、ザクセン選帝侯領ではプロテスタントのより自由な活動が許され、領内では隠れカルヴァン主義 (en) が流行した。しかし三十年戦争前夜のクリスティアン2世の治世、隠れカルヴァン派の信仰を普及させた宰相のニコラウス・クレル (en) は更迭・斬首され、選帝侯領には厳格なルター派宗教体制が復活した。

次のヨハン・ゲオルク1世(在位:1611年 - 1656年)の長い治世に、ドイツでは三十年戦争が勃発した。ヨハン・ゲオルク1世は当初、中立を維持してスウェーデングスタフ2世アドルフの参戦の打診にも応じなかったが、皇帝軍の指導者ティリー伯爵がザクセン領内に進軍すると、プロテスタント側に立って戦うことになった。


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