ほか、F1だけでなくスイスF3用の車両も製作している。 1955年のル・マン24時間レースにおいて発生した大惨事の影響でスイス国内におけるサーキットレースが禁止されていたため、参戦までには多くの障害があった。
耐久レースでの活躍
チーム創設
1973年、ザウバーはドライバーを引退し、シャシーコンストラクターに専念する。ザウバーの活躍に目をつけた出資者から融資を得て、ザウバー・C3(英語版)を3台製作。ギ・ボワザンによって設計されたこの車はスイスのスポーツカー選手権で活躍することになる。1974年、フリードリヒ・ヒュルツェラーがヒルクライムレースでC1を駆って優勝を果たした。ザウバー・C5。ザウバーの車体の中でも最高傑作と言われる。
1975年には自社初のモノコックシャシーとなるザウバー・C4(英語版)を製作。1976年にはBMWエンジンを搭載するザウバー・C5(英語版)を製作し、同年のインターセリエでヘルベルト・ミューラー (Herbert Muller) がシリーズチャンピオンを獲得した。
1977年にはル・マン24時間レースに初挑戦。翌1978年のル・マンでは、2リッタークラス2位を獲得した。
一時期スポーツカーレースから離れ、1979年にはローラのF3用シャシーを製作し、同年のスイスF3選手権では1位(ビート・ブラッター)、2位、4位を占めるという成績を収めた。1980年から1981年にかけてはプロカー選手権 (BMW M1 Procar Championship) 用のBMW M1の開発に携わった。
1982年、コスワースDFLエンジンを搭載するグループCマシン、ザウバー・SHS C6(英語版)を製作し、GSスポーツとジョイントして世界耐久選手権に参戦。C6はチーム初の風洞施設による設計であり、テクニカルディレクターとしてレオ・レスが参画した。1983年にはBMWエンジンを搭載するザウバー・C7(英語版)を製作した。 1985年、ザウバー・C8の開発にあたり、メルセデス・ベンツから市販ベースのターボエンジンの供給を受けた。奇しくも先述の1955年のル・マンの大惨事によって30年間レースから遠ざかっていたメルセデスを、同事故によってレースから遠ざかっていたスイスのモータースポーツチームが呼び戻したことになる。デビュー戦のル・マン24時間レースでは予選中にユノディエール・ストレートでマシンが宙を舞い、決勝出走を断念した。 1986年、世界スポーツプロトタイプカー選手権にC8を本格投入し、第7戦ニュルブルクリンク1000km
メルセデスとの提携
1987年、さらに進化したザウバー・C9を開発。1988年にはメルセデスが正式にモータースポーツに復帰することを発表し、チーム名を「チーム・ザウバーメルセデス」とした。これによりザウバーはワークス・チームとなり、選手権開幕戦より優勝を果たすなど11戦中5勝を挙げ、チームズランキング2位を獲得した。1989年のル・マン24時間レースにて優勝を果たしたザウバー・C9。
1989年、C9は開幕戦鈴鹿で1-2フィニッシュを挙げ、世界三大レースの1つであるル・マン24時間レースにも優勝。同年の選手権8戦中7勝という圧倒的な強さを見せ、ドライバーズとチームズのダブルタイトルを制覇した。
1990年もメルセデスベンツ・C11を投入して9戦中8勝、ル・マン優勝こそジャガー・XJR-12に譲ったものの、世界スポーツプロトタイプカー選手権連覇。また、前年のドイツF3選手権のランキング上位3名(カール・ヴェンドリンガー、ハインツ=ハラルド・フレンツェン、ミハエル・シューマッハ)を採用し、ヨッヘン・マスらベテランと組ませて交替で参戦させた。この「メルセデス・ジュニアチーム」はメルセデスのレースディレクターであるヨッヘン・ニアパッシュが計画したもので、若手ドライバーの起用に難色を示していたザウバーも彼らの才能を認めることになった[7]。
1991年はエンジンレギュレーション変更に合わせNAエンジンのメルセデスベンツ・C291を投入したが、信頼性不足で1勝(ランキング3位)に終わり、この年を以って耐久レースでの活動を終了した。