ザウバー
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また、マシン開発に重要な風洞設備だが、スイスのヒンウィルに建設された施設は、自動車用としては世界有数の性能であり、フルスケールのマシンを検証可能な設備であったことから完成時は高い評価を得ていた(ただ、初期はトラブルが続いて本格稼働まで時間がかかった)[4][5][6]。一方でBMW時代に受けた投資によって設備の改修は行われたものの、施設としての建築年数はかなり経過しているため、老朽化している一面もあるが、大型の風洞設備を持っているF1チームであることには変わりなく、これのレンタル費用はチームの収入源となっており、これも消滅を回避することができた一因でもある。2020年代に入ると、FIA 世界耐久選手権(WEC)に参戦するLMH/LMDh車両のホモロゲーションをザウバーの風洞で行うことが義務付けられ、新たな収入源となっている。

ほか、F1だけでなくスイスF3用の車両も製作している。
耐久レースでの活躍
チーム創設

1955年のル・マン24時間レースにおいて発生した大惨事の影響でスイス国内におけるサーキットレースが禁止されていたため、参戦までには多くの障害があった。

1970年、アマチュアレーサーだったペーター・ザウバーヒルクライムに参戦するため、自宅の地下室でザウバー・C1(英語版)を製作。ヒンウィルにガレージを開設し、正式にチーム活動を開始した。

1973年、ザウバーはドライバーを引退し、シャシーコンストラクターに専念する。ザウバーの活躍に目をつけた出資者から融資を得て、ザウバー・C3(英語版)を3台製作。ギ・ボワザンによって設計されたこの車はスイスのスポーツカー選手権で活躍することになる。1974年、フリードリヒ・ヒュルツェラーがヒルクライムレースでC1を駆って優勝を果たした。ザウバー・C5。ザウバーの車体の中でも最高傑作と言われる。

1975年には自社初のモノコックシャシーとなるザウバー・C4(英語版)を製作。1976年にはBMWエンジンを搭載するザウバー・C5(英語版)を製作し、同年のインターセリエでヘルベルト・ミューラー (Herbert Muller) がシリーズチャンピオンを獲得した。

1977年にはル・マン24時間レースに初挑戦。翌1978年のル・マンでは、2リッタークラス2位を獲得した。

一時期スポーツカーレースから離れ、1979年にはローラF3用シャシーを製作し、同年のスイスF3選手権では1位(ビート・ブラッター)、2位、4位を占めるという成績を収めた。1980年から1981年にかけてはプロカー選手権 (BMW M1 Procar Championship) 用のBMW M1の開発に携わった。

1982年コスワースDFLエンジンを搭載するグループCマシン、ザウバー・SHS C6(英語版)を製作し、GSスポーツとジョイントして世界耐久選手権に参戦。C6はチーム初の風洞施設による設計であり、テクニカルディレクターとしてレオ・レスが参画した。1983年にはBMWエンジンを搭載するザウバー・C7(英語版)を製作した。
メルセデスとの提携

1985年ザウバー・C8の開発にあたり、メルセデス・ベンツから市販ベースのターボエンジンの供給を受けた。奇しくも先述の1955年のル・マンの大惨事によって30年間レースから遠ざかっていたメルセデスを、同事故によってレースから遠ざかっていたスイスのモータースポーツチームが呼び戻したことになる。デビュー戦のル・マン24時間レースでは予選中にユノディエール・ストレートでマシンが宙を舞い、決勝出走を断念した。

1986年世界スポーツプロトタイプカー選手権にC8を本格投入し、第7戦ニュルブルクリンク1000kmにて初優勝を遂げた。

1987年、さらに進化したザウバー・C9を開発。1988年にはメルセデスが正式にモータースポーツに復帰することを発表し、チーム名を「チーム・ザウバーメルセデス」とした。これによりザウバーはワークス・チームとなり、選手権開幕戦より優勝を果たすなど11戦中5勝を挙げ、チームズランキング2位を獲得した。1989年のル・マン24時間レースにて優勝を果たしたザウバー・C9

1989年、C9は開幕戦鈴鹿で1-2フィニッシュを挙げ、世界三大レースの1つであるル・マン24時間レースにも優勝。同年の選手権8戦中7勝という圧倒的な強さを見せ、ドライバーズとチームズのダブルタイトルを制覇した。

1990年メルセデスベンツ・C11を投入して9戦中8勝、ル・マン優勝こそジャガー・XJR-12に譲ったものの、世界スポーツプロトタイプカー選手権連覇。また、前年のドイツF3選手権のランキング上位3名(カール・ヴェンドリンガーハインツ=ハラルド・フレンツェンミハエル・シューマッハ)を採用し、ヨッヘン・マスらベテランと組ませて交替で参戦させた。この「メルセデス・ジュニアチーム」はメルセデスのレースディレクターであるヨッヘン・ニアパッシュが計画したもので、若手ドライバーの起用に難色を示していたザウバーも彼らの才能を認めることになった[7]

1991年はエンジンレギュレーション変更に合わせNAエンジンのメルセデスベンツ・C291を投入したが、信頼性不足で1勝(ランキング3位)に終わり、この年を以って耐久レースでの活動を終了した。


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