サン・バルテルミの虐殺
[Wikipedia|▼Menu]
1559年馬上槍試合での事故によりアンリ2世が死去すると、15歳のフランソワ2世が即位し、王妃メアリー・スチュアート(スコットランド女王メアリー)の伯父であるギーズ公フランソワロレーヌ枢機卿が実権を掌握した[14]。熱烈なカトリックであるギーズ家はプロテスタント迫害を行い、これに反発した不平貴族がギーズ家打倒を図るが、逆襲を受け多数のプロテスタント貴族が処刑されてしまう(アンボワーズの陰謀[15]。母后カトリーヌ・ド・メディシスに召喚され、宮廷に出仕したコンデ公も逮捕された。

1560年に僅か1年半の在位でフランソワ2世が病死して幼少のシャルル9世が即位すると、母后カトリーヌは本来は摂政となるべき第一血統親王のナバラ王アントワーヌと取引を行い、ナバラ王の辞退によりカトリーヌが摂政となり、代わりにコンデ公は釈放された[16]。実権を握ったカトリーヌは大法官ミシェル・ド・ロピタルを重用してプロテスタントとの融和政策を採る[17]。カトリーヌはカトリックとプロテスタントの代表者による宗教会談(ポワシー会談)を開き、宗教融和を図るが、彼女の楽観的な見通しに反して、両者の信仰上の相違は大きく決裂に終わった[18]

ユグノー(huguenot)というフランス・プロテスタントの呼称はカトリックとプロテスタントとの論争の際に生まれ、ドイツ語のEidgenosse(アイトゲノッセ、盟友の意味)から生まれた蔑称である[5][19]
ユグノー戦争シャルル9世。サン・バルテルミの虐殺が発生した1572年8月時点で22歳だった。詳細は「ユグノー戦争」を参照

1562年、カトリーヌは内戦を回避すべくサン=ジェルマン勅令(一月勅令)を発し、プロテスタントに一定の制限の下での礼拝の自由を容認するが、ギーズ公の兵士がプロテスタントを虐殺する事件(ヴァシーの虐殺)が起き、内戦は不可避となった[20]

ユグノーの指導者コンデ公とコリニー提督は兵を集めて諸都市を攻撃するとともに、イングランド女王エリザベス1世とハンプトン・コート条約を結び援助を取りつけた[21]。国王軍は反撃に出て、ルーアンを陥落させるが、この戦いでナバラ王アントワーヌ(カトリックに改宗して国王軍の司令官になっていた)が戦死している。ドルーの戦いで国王軍はコンデ公を捕虜にし、カトリック陣営が優勢になるが、オルレアン包囲戦の最中にギーズ公フランソワが暗殺されてしまう。ギーズ家はコリニー提督が暗殺の黒幕と信じた[22]。強硬派だったギーズ公フランソワの死により、カトリーヌが和平を調停し、1563年に和議が成立した。

1567年まで約4年間一応の平和は保たれたが、プロテスタントとカトリックの対立は続き、国王・母后のスペインへの接近を警戒したユグノー陣営が国王奪取を企てたため(モーの奇襲)、内戦が再開した(第二次戦争)。翌1568年にロンジュモーの和議が結ばれたが、この和平は直ぐに破たんした(第三次戦争)。ユグノーは大西洋沿海地域の要塞化された拠点ラ・ロシェルへと退却し、ジャンヌ・ダルブレも15歳の息子アンリ・ド・ブルボンとともに彼らに合流した[23]。ジャンヌはカトリーヌに対して「私たちは神と信仰を捨てるよりは死ぬことを決意してここへやって来た」と書き送っている[24]。カトリーヌはジャンヌを「世界で最も恥ずべき女」と呼んだ[25]

1569年のジャルナックの戦いで王弟アンジュー公アンリ(後のアンリ3世)率いる国王軍が勝利し、コンデ公が戦死する。これにより、先に死去したナバラ王アントワーヌとジャンヌ・ダルブレ(ナバラ女王ファナ3世)の息子アンリ・ド・ブルボン(後のアンリ4世)がユグノー陣営の盟主となった[26]

ユグノー軍は一時苦境に陥るが、コリニー提督の指揮により巻き返し、パリへと進軍する。資金を使い果たした国王軍は1570年8月8日にサン・ジェルマンの和議(英語版)を結び、ユグノーに対してこれまで以上の寛容を余儀なくされた[27]
コリニー提督の宮廷復帰ユグノーの指導者。ガスパール・ド・コリニー。「提督」(Amiral de France)の称号で知られる。

サン=ジェルマンの和議により、ユグノーには礼拝の自由と4ヶ所の安全保障都市(ラ・ロシェルラ・シャリテ=シュル=ロワールコニャックモントーバン)が与えられた[28]

強硬派カトリックを率いるギーズ家が宮廷で忌避される一方で、1571年9月にユグノーの指導者コリニー提督が国務会議に復帰した。カトリックたちはプロテスタントの宮廷復帰に衝撃を受けたが、母后カトリーヌ・ド・メディシスと国王シャルル9世は内戦を再開させない決意をしていた。彼らは王国財政の困難を自覚しており、このため平和を維持し、コリニー提督と友好的な関係を保とうとしていた。ところが、国王シャルル9世本人がコリニー提督に強く傾倒するようになり、国王は彼を「よき友」「父上」と呼ぶまでになってしまう[29]

国王の信頼を得たコリニー提督は、サン=ジェルマンの和議の適用をユグノー側に有利に進めさせる[30]。1569年にユグノーをかばった罪で処刑されたフィリップ・ド・ガスティーヌの邸宅に立てられた十字架の問題が熱心なカトリックであるパリ市民の不満を煽ることになった。この十字架は群集がガスティーヌの邸宅を打ち壊したさいに立てられたものであったが、和議の適用を実施するカトリックとプロテスタントの混合委員会はユグノーにとって侮辱である十字架をイサン墓地へ移すよう命じた[31]。高等法院とパリ市長はこれに反対して問題が紛糾し、結局、12月に民衆の抵抗を排除して十字架は取り除かれたが、この際に約50人が犠牲となり、群集による家屋打ち壊しが起こっている[32]

1572年5月にルートヴィヒ・フォン・ナッサウ(英語版)率いるユグノー軍が国境を越えてネーデルラント領エノーへ侵攻し、モンスヴァランシエンヌを占領したとの報告がパリへもたらされると緊張はより一層高まった。ルートヴィヒ・フォン・ナッサウはネーデルラントでスペインに対する反乱を起こしたオランジュ公ウィレム1世の弟であり、兄に代わって南フランスのオランジュ公国(英語版)を統治していた人物だった。カトリックはコリニー提督がオランダ人の側に立って参戦するよう国王を説得していると信じた[33]。事実、コリニー提督はネーデルラントでの戦争に介入するようシャルル9世を説得しており、前年の10月にはこれに成功していたが、カトリーヌがこの決定を覆している[34]
ナバラ王アンリと王妹マルグリットの結婚ジャンヌ・ダルブレ(ナバラ女王ファナ3世)

サン=ジェルマンの和議が成立すると母后カトリーヌは両宗派間の和平を固めるために、王女マルグリット・ド・ヴァロワとユグノー陣営の盟主アンリ・ド・ブルボンとの結婚を提案した。アンリ・ド・ブルボンの母ジャンヌ・ダルブレは二人の信仰の違いを理由に反対しており[35]、カトリックの側でもこの結婚には反対意見が強く、教皇ピウス5世は結婚の承認を頑強に拒み、教皇特使はマルグリットは妾となり、生まれた子は私生児になるとカトリーヌを脅した[36]。マルグリット自身にも問題があり、彼女はギーズ公アンリ(先に暗殺されたギーズ公フランソワの息子)とひそかに恋仲になっており、このことを知ったカトリーヌは激怒し、娘を寝室から連れて来させると、王とともに彼女を引っ叩き、寝間着を引き裂き、そして彼女の毛髪をひとつかみ引き抜いた[37]


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:157 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef