サン・バルテルミの虐殺
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抗争はシュマルカルデン戦争1546年?1547年)に勝利した皇帝カール5世のカトリック陣営優勢に終わるかに見られた。だが、1552年にフランスと結んだザクセン選帝侯モーリッツが反乱を起こして皇帝を襲撃し、カール5世は大敗を喫してプロテスタント信仰(ルター派のみ)を容認するアウクスブルクの和議1555年)を余儀なくされる[7]

スペイン・ハプスブルク家の領地であったネーデルラントにもプロテスタントが浸透しており、スペイン王フェリペ2世アルバ公を派遣して弾圧による恐怖政治で応じたが、1568年に北部ネーデルラント7州が反乱を起こしオランダ独立戦争(八十年戦争)が勃発する[8]

フランスにおいても宗教改革と通じる福音主義的思想が現れた。その最初期のものは、ルフェーヴル・デタープルによるパウロの書簡の注解(1512年)やフランス語訳新約聖書(1523年)があげられる[9]。しかしパリ大学の神学者やパリ高等法院から弾圧され、デタープルはストラスブールへ亡命するなど、改革運動に迫害が加えられた。だが改革派は急速に影響力を増大させ[注釈 1]、1550年代にはカルヴァンの指導の下で組織化が図られるようになった。

国王フランソワ1世は姉のマルグリットが人文主義や改革運動に好意的であったためか、当初改革派に理解を示していたが、檄文事件を境に弾圧に回り、パリ高等法院に異端審問委員会を設置した[10]。さらに後継者アンリ2世1547年に特設異端審問法廷を設け、弾圧を強化した[11]

これに対し改革派は1559年に第1回全国改革派教会会議を開催し、信仰箇条や教会の規則を定めて一応の組織化を果たした[12]。プロテスタントは血統親王であるブルボン家ナバラ王アントワーヌを盟主に戴き、後により信仰に熱心なその弟のコンデ公ルイが中心人物となった[13]

1559年馬上槍試合での事故によりアンリ2世が死去すると、15歳のフランソワ2世が即位し、王妃メアリー・スチュアート(スコットランド女王メアリー)の伯父であるギーズ公フランソワロレーヌ枢機卿が実権を掌握した[14]。熱烈なカトリックであるギーズ家はプロテスタント迫害を行い、これに反発した不平貴族がギーズ家打倒を図るが、逆襲を受け多数のプロテスタント貴族が処刑されてしまう(アンボワーズの陰謀[15]。母后カトリーヌ・ド・メディシスに召喚され、宮廷に出仕したコンデ公も逮捕された。

1560年に僅か1年半の在位でフランソワ2世が病死して幼少のシャルル9世が即位すると、母后カトリーヌは本来は摂政となるべき第一血統親王のナバラ王アントワーヌと取引を行い、ナバラ王の辞退によりカトリーヌが摂政となり、代わりにコンデ公は釈放された[16]


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