サン・セバスティアン
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サン・セバスティアンの東17kmにあるイルンにはバスク・ローマの町であるオイアッソ(英語版)の遺跡があるが、文献上では長い間サン・セバスティアンがオイアッソであると誤認されていた。
中世

中世初期には長くサン・セバスティアンが文献に登場しないが、1014年、エルナニとの境界に近く、サガルド(リンゴ酒)用のリンゴ園を持つ聖セバスティアンの修道院がナバラ王国サンチョ3世によってレイレ修道院に寄進された。1181年までに、サン・セバスティアンはイスルムに所在するナバラ王サンチョ6世に自治権(フエロ)を与えられ、オリア川ビダソア川の間のすべての領土を管轄した。

1200年にはアルフォンソ8世を王とするカスティーリャ王国に征服され、自治権を維持することは確認されたが、ナバラ王国は大西洋に直接到達するルートを剥奪された。1204年かそれより早く、モンテ・ウルグル山麓にある都市中心部にはバイヨンヌやさらに遠くからガスコン語を話す移住者が移り住んだ。彼らはその後数世紀の間に、サン・セバスティアンの発展に重要な足跡を残している[19]

1265年、カスティーリャ王国とナバラ王国の婚姻に関する協定の一部として、港湾都市サン・セバスティアンがナバラ王国に与えられた。サン・セバスティアンに住んでいた多数のガスコン語住民は、ヨーロッパの他港やガスコーニュ地方との貿易の発展を支持した。サン・セバスティアンはギプスコア地方で起こった壊滅的なバンドス戦争(英語版)から逃れた領土中唯一の町である。戦争が終結した1459年にはサン・セバスティアンもギプスコア地方の一部となった[19]。16世紀までのサン・セバスティアンは大部分の戦争から逃れていたが、15世紀初頭までには簡易な構造の防壁が市街地を取り囲んでいたことが証明されている。中世末の1489年には大規模な火災によって町が荒廃し、この火災後には木材の代わりに主に石材を使用して町の復興に取り組んだ。
近代

近代のサン・セバスティアンは不安定さと戦争の時代だった。15世紀後半にナバラ王国が衰退すると、サン・セバスティアンはフランスとスペインの国境の最前線に取り残された。市街地の周囲にはより分厚くより洗練された防壁が築かれたが、1521年にはナバラ王国の消滅の余波としてスペインとフランスの間の戦争に巻き込まれた。オンダリビアでのスペインとフランスの衝突の際には、スペインに対して貴重な船舶の支援を提供し、この際のサン・セバスティアンがスペインに対して「とても気高くとても忠実」だったことが紋章に記録されている。また、1520年代のノアインの戦い(英語版)の際には部隊を派遣し、コムネロスの反乱の際には支援を提供することで、神聖ローマ皇帝カール5世の信頼を得た。

中世にイベリア半島北部をナバラ王国が征服してから、サン・セバスティアンはギプスコアの一員だったが、その設立以来政治的・経済的にサン・セバスティアンで主導的な役割を果たしていたガスコン人が影響力のある公的な地位から除外されるようになった。カルロス1世(カール5世)によってカスティーリャの貿易独占権が解除されると、1527年にはセストア(スペイン語版)が、1557年にはオンダリビアが、1558年にはベルガラが、1604年にはトローサが、1662年にはデバが、スペイン王室によって新大陸貿易の認可を受けている[19]。一方、戦争や疾病などの流行でサン・セバスティアンは荒んだ状態となり、フランスやオランダの貿易船から富を得たスペイン国王フェリペ2世の援助の下、多くの漁師や貿易商は生きるために海賊として航海に出た。

1656年、フェリペ4世の娘マリア・テレサルイ14世がナバラ王国領(フランス領バスク)のサン=ジャン=ド=リュズ近郊で婚姻を行う際、サン・セバスティアンはスペイン王室の司令部として使用された。比較的平和な世紀だった17世紀の後、1721年にはフランスのベリック公爵軍によって包囲されたが、フランス軍の砲撃を受けることはなく、多くの都市構造は再建された。1728年には王立ギプスコア・デ・カラカス会社(英語版)が設立され、アメリカ大陸のスペイン領との貿易が盛んとなった。この会社の利益によって、市街地の改修・改善やサンタ・マリア教会の再築などが行われた。サン・セバスティアンの富の蓄積と発展は18世紀末まで続いた[20]

スペイン独立戦争中の1808年、フランスのナポレオン1世軍はサン・セバスティアンを占領した。1813年8月28日夜にはイギリス海軍小艦隊が上陸して浜辺のサンタ・クララ島を占領し、フランス軍と対面。町はビスケー湾と川幅の広いウルメア川河口の間の狭い岬に位置し、自然の要塞のようで奪還が困難だった。ウィリアム・デント(英語版)は「ジブラルタルを除けば、(サン・セバスティアンは)私が見た中でもっとも強固な要塞である」と記している[21]。3日後の8月31日、イギリス軍とポルトガル軍の解放軍は、サン・セバスティアン包囲戦を行ってフランス軍から町を奪還した。解放軍は自制を失って町を焼き払い、丘の麓の1本の通り(現在の8月31日通り)のみが残ったが、サン・セバスティアンの住民はフランスに対する反発感情を捨てなかった。
現代ギプスコア県庁舎ビクトリア・エウヘニア劇場クルサール国際会議場・公会堂とクルサール橋


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