サン・カルロ劇場
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オペラ・ブッファの領域のみならず、オペラ・セリアにおいても、レーオポルポラトラエッタピッチンニヴィンチアンフォッシドゥランテヨンメッリチマローザパイジエッロジンガレッリなどが活躍していた。ナポリはヨーロッパにおける音楽上の首都と見做されており、他国の作曲家、例えばハッセヨハン・クリスティアン・バッハグルックなどもサン・カルロ劇場をそのキャリアの頂点として考えていた。同様に、多くの著名な歌手もサン・カルロ劇場で演じた。"La Cochetta"という愛称で知られるルクレツィア・アングイアーリ、ナポリの音楽院出身のカストラートたち―カファレッリ(ガエターノ・マヨラーノ)、ファリネッリ(カルロ・ブロスキ)、ジジエッロ(ジョアッキーノ・コンティ)などである。
19世紀

1816年2月12日、サン・カルロ劇場は火事により焼失するが、両シチリア王フェルディナンド1世(ナポリ王としてはフェルディナンド4世、劇場創設者カルロス3世の子)の命により僅か10か月にして再建される。現在の建築はこの再建建築と基本的には同一であり、変化はヴェルディの提案したオーケストラ・ピットの設置(1872年)、電気照明の導入および中央シャンデリアの撤廃(1890年)、入口ロビー並びに楽屋棟の建築、に限られている。

1817年1月12日、再建された劇場はマイールの『パルテーノペの夢』Il sogno di Partenopeで再オープンする。スタンダールはこの公演の2夜目を聴いており「ヨーロッパのどこにも、この劇場に比べ得るどころか、この劇場の素晴らしさの足許に及ぶところも存在しない。ここは人の目を眩惑し、ここは人の魂を狂喜させる」と書き記している。

1815年から1822年まで、ロッシーニはこのサン・カルロ劇場を含めたナポリ王国全ての王立オペラ劇場の劇場付作曲家・兼音楽監督であり、9つのオペラがこの時期書かれた。『イングランドの女王エリザベッタ』(Elisabetta Regina d'Inghilterra, 1815)、『オテロ』(Otello, ossia il Moro di Venezia, 1816)、『アルミーダ』(Armida, 1817)、『エジプトのモーゼ(イタリア語版、英語版)』(Mose in Egitto, 1818)、『湖上の美人』(La Donna del Lago, 1819)、『ゼルミーラ』(Zelmira, 1822)などである。

この時期に定期的に出演していた著名な歌手は、マヌエル・ガルシア(英語版) 、その娘マリア・マリブランジュディッタ・パスタイサベラ・コルブラン、ジョヴァンニ・バティスタ・ルビーニ(イタリア語版)、ドメニコ・ドンツェッリなどである。またテノールの高音を競った有名なフランス人二人―アドルフ・ヌーリとジルベール・ルイ・デュプレ(「胸声のC」の創始者)も出演している。

『ゼルミーラ』の公演後、ロッシーニはコルブランと共にナポリからの逃避行に立つ。コルブランはその時までは、サン・カルロ劇場支配人バルバイヤの愛人だったのだ。怒ったバルバイヤは人気上昇中のイタリア人オペラ作曲家ガエターノ・ドニゼッティと契約を交わす。ロッシーニと同様にナポリ王国・王立オペラ劇場付作曲家・兼音楽監督となったドニゼッティはナポリに1822年から1838年まで滞在、この劇場のために16のオペラを書いた。『マリア・ストゥアルダ』(Maria Stuarda, 1834)、『ランメルモールのルチア』(Lucia di Lammermoor, 1835)、『ロベルト・デヴリュー』(Roberto Devereux, 1837)、『ポリウト』(Poliuto, 1838)などである。ただし『ポリウト』は検閲のためナポリでの上演は断念、パリで『殉教者』(Les Martyrs, 1840)としてフランス語で初演され、『ポリウト』としての初演はドニゼッティの没後1848年11月当劇場で行われた。


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