1976年11月に東北新社傘下から離脱。株式会社日本サンライズ(英: NIPPON SUNRISE INC.)に改組・商号変更し、東映本社作品と円谷プロ作品のアニメーション制作を下請けするようになる。一説には利益の配分を巡る喧嘩別れとも言われており[9]、サンライズの飯塚正夫によると、『ゼロテスター』や『勇者ライディーン』などで得た利益はすべて東北新社に行っており、彼らは給料が上がらず不満が溜まっていたという[10]。翌1977年の『無敵超人ザンボット3』にて初めて自社企画制作作品を世に送り出す。1979年制作の『機動戦士ガンダム』とその後の劇場用作品により、アニメ業界にリアルロボットブームを巻き起こした。
1981年、初代社長の岸本吉功が死去。当時まだ40代であったが、激務が祟り、健康を害した事による早逝だったという[11]。岸本の死を受け、第2代社長に伊藤昌典が就任。
1985年、オリジナルビデオアニメ(OVA)に進出。OVAという体裁こそ取っているものの、サンライズ制作のそれにおいて全くのオリジナル企画は少なく、『装甲騎兵ボトムズ』のようなテレビシリーズで人気を得た作品の続編や、『機甲猟兵メロウリンク』のようにその延長線上にある企画という基本方針を取っている。 1987年6月に株式会社サンライズへ商号変更し[2]、第3代社長に山浦栄二が就任する。この商号変更と山浦の社長就任に伴い、従来のオリジナル企画主体の路線から転換し、『ミスター味っ子』『シティーハンター』『バツ&テリー』などを端緒に、漫画原作付き作品を手がけることが増えていった。これらの作品では演出として著名な映画・ドラマ・アニメ[注 3]、制作当時の時事ネタなどのパロディを取り入れるようになり、以降同社制作アニメの特徴のひとつとなってゆく。 またこの頃は、『ガンダム』に端を発したリアルロボットブームが下火になりつつあった時期でもあり、その火付け役であったサンライズもまた同年放送の『機甲戦記ドラグナー』を最後に、リアルロボット系作品に依存した体制からも一旦脱却。玩具メーカーとのタイアップのオリジナル企画においても、『魔神英雄伝ワタル』を機に子供がロボットに乗る、もしくはロボットと友情を育むことで敵を倒すロボットアニメをてがけた他、『鎧伝サムライトルーパー』の関連作品の成功を受ける形で、容姿端麗な美少年が特殊アーマーを装着する鎧ものが幅を利かせた。 当時の入居していたビルでは1階がスタジオ、2階が企画室、3?5階が本社だった[12]。有名なロボットアニメを多数手がけるサンライズは上井草駅前に自社ビルを有する大企業だと思っていた石垣純哉は、小さなビルでTシャツにジーンズというラフな姿の若者が出迎えたことに驚いたという[12]。 1990年代前半には、当時のガンダムよりも下の年齢層をメインターゲットとした『勇者シリーズ』が商業的な成功を収めるなど、元々得意とするオリジナル作品も堅調に推移した。 1994年4月1日、バンダイによる資本参加を受けて同社傘下のグループ企業となる。これに伴い経営陣も刷新され、以降の経営上層部の人材は松本悟のように、主にバンダイの送り込んだ人物が占める様になっていった。 川口克己によると、バンダイグループ内部には出資した作品のマーチャンダイジングの成功・不成功の判断基準として、『ガンダム』シリーズを指標に用いる向きがあり、同シリーズと同程度の売上でないと作品として成功とは見なされないことから、自然とガンダムに偏重していく傾向があるという[13]。サンライズ作品に限らず、「ロボットアニメはガンダムに淘汰される」という見方すらある[14]。このため勇者シリーズが終了した1990年代末以降はサンライズ自身でさえ、少年向け・低年齢層向けのロボット物のオリジナルアニメ作品を発表する機会にはなかなか恵まれなくなった。 またバンダイグループ(バンダイナムコグループ)は、版権・キャラクター関連のビジネスでは長年の業界最大手として豊富なノウハウを持っているが、その裏返しとして同社が関与する作品において、版権や制作体制全般の管理が極めて厳しく徹底されることでも知られている。サンライズもバンダイグループ入りの後はその例に漏れず、版権ビジネスだけではなく作品出演の声優や原作者・監督などのメディア出演についても、管理がより強化・徹底されるようになっていった。 以後の沿革・歴史は下記にて年代ごとに記載。
株式会社サンライズ
バンダイ(バンダイナムコ)グループ傘下企業へ