サンブルーノ
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[15]併合されるまでは、ロミータ・パークにはサザンパシフィック鉄道の駅があった。

ローリングウッド、クレストムーア、ジョン・ミューア、カール・サンドバーグの各小学校に続き、パークサイド・インターミディエイト・スクールが1954年に開校した。さらにエングバル・インターミディエイト・スクールもクレストムーア・キャニオンに建設されたが、後に閉校した。また入学者数の減少によりノース・ブレイ小学校とサンドバーグ小学校も閉校した。これらの学校はすべてサン・ブルーノ・パーク学区の一部であった。市の北西部はラグナ・サラダ学区に属していた。私立学校のハイランズ・クリスチャン・スクールは1966年に設立された。この学校では大学進学のための教育が行われている。サンブルーノは1950年代半ばに新たな併合を検討し、市の領域を太平洋沿岸まで広げようとした。だがサンブルーノの西側にあった未編入領域は併合に反対し、1957年にパシフィカ市として法人化された。

1957年5月22日、マグニチュード5.7の地震が市の周辺で発生した[16]。市全体で多少の被害があり、いくつかの学校では窓ガラスが割れたり壁にひびが入ったりした。教育学区の理事が集まって開かれた会合のテーブルに、石膏ボードの大きな塊が落下したが、幸いにもけが人は出なかった。商店では棚の商品が床に散乱するなどの被害があり、一時的に閉店した店舗もあった。カプチーノ高校では地震の後数日休校したが、他の学校では生徒を開けた場所に避難させた。

エイマック社(Eitel-McCullough)はサンブルーノに長年にわたって大規模な工場を運営している。ウィリアム・アイテルとジャック・マクロウが1934年に会社を立ち上げた。同社は電力格子増幅管の生産に特化している[17]。エイマック社は通信機器に使われる真空管の生産でも知られており、それ以外にも軍事用、商業用の製品を生産している[18]。同報通信も業務の一部として行っているため、エイマック社はFMラジオのKSBR(100.5MHz)も運営している[19]。このラジオ局は1947年に開設され、同年にレンジャトーンのオルガンのテープレコーダーが放送で流された。レンジャトーンのオルガンのテープレコーダーを放送したのはアメリカで2つのラジオ局だけであり、もう1つはワシントンD.C.のウォッシュFMであった[20]。このテープレコーダーはドイツのマグネトフォンをもとに作られたものであった。同社はさらに広い土地を必要としたため、1959年にサンカルロスに移った[21]。エイマックのサンカルロス工場は1959年4月16日に完成した[21]。1965年、エイマック社はバリアン・アソシエイツ(Varian Associates)社と合併し、EIMAC Division of Varianとして知られるようになった。1995年、レオナルド・グリーン・アンド・パートナーズ社はバリアンの電子管部門を買収し、CPI社(Communication and Power Industries)が組織された[22]

1960年に2年制のコミュニティ・カレッジの、スカイライン大学が設立された。クレストムーア高校は1962年9月に開校したが、1980年6月に入学者数の減少のため閉校した。

昔からサンブルーノのランドマークといえば、1899年に開設されたタンフォラン競馬場であった。シービスケットサイテーションといった有名な競走馬がここでレースを戦った。著名な映画監督であるフランク・キャプラもこの競馬場でブロードウェイ・ビルとライディング・ハイの2本の映画の一シーンを撮影した。1942年の6か月間、競馬場にはサンフランシスコ・ベイエリアに住む日系人が強制収容された。約8000人の日系人が集められ、その後ユタ州の砂漠地帯にあった収容所やオーエンズヴァレーにあるマンザナー強制収容所に移送された[23]。競馬場は1964年に閉鎖され、まさに取り壊されようとされていた時、7月31日に火災によって焼失してしまった[24] 。競馬場の跡地にはザ・ショップス・アット・タンフォランというショッピングモールが後に建設された。その周りの道路はタンフォラン競馬場で活躍した競走馬の名前が付けられている。

1964年12月23日、フライング・タイガー・ライン282便が市内に墜落した。

1960年代後半、サンブルーノ市内を通る州間高速道路280号線(フニペロ・セラ・フリーウェイ)、さらに州間高速道路380号線が建設された。サンブルーノ計画委員会(キャスパー・ワインバーガーの兄、ピーター・ワインバーガーが委員長を務めていた)は、大規模ショッピングセンターをベイヒル(サンブルーノ・アベニューとスニース・レーンの間、かつての海軍用地)とタンフォラン2か所に建設する計画を審査し、承認した。最終的な決定はサンブルーノ市議会によって下され、大規模商業施設の建設が進められることになった。ショッピングセンターが建設される前までは、サンマテオ・アベニューとエル・カミノ・リアルに市の商業施設の大半が位置していた。

サンブルーノはベイ・エリアにおいて、独自のケーブルテレビ、インターネットのシステムを運営している2つの都市の1つである。

1989年10月17日、マグニチュード6.9のロマ・プリータ地震が発生し、市でも多少の被害が出た。当時サンブルーノで最も高い建物の、合衆国郵便公社西部本社は深刻なダメージを負ったために取り壊された。その後、この場所にはGAPのオフィスビルが建設された。現在、ビルにはウォルマートのオンライン部門(Walmart.com)が入っている[25]。このビルは現在市内で最も高い建物である。
21世紀火災と爆発の後、破壊された街の様子

2003年、BARTの路線のミルブレーサンフランシスコ国際空港間が延長され、サンブルーノ駅が開業した。

2007年、YouTubeの本社がサンマテオからサンブルーノの、州間高速道路380号線からチェリー・アベニューに入った場所へ移転した。

2010年9月9日午後6時15分頃、パイプラインが破裂し火災が発生。周囲に深刻な被害を与えた。8人が死亡し、約60人が怪我を負った。さらに38軒の家屋が全壊し、123軒の家屋が一部損壊した。火災が起きた場所は衛星画像でも容易に捉えられていた。

爆発はサンフランシスコ国際空港の約3q西で発生した。最初は航空機の事故が発生したと思われていたが、連邦航空局や空港は航空機が墜落したという報告は確認されていないとした。

爆発が発生する数日前から、周辺で天然ガスの臭いが強くしているとの連絡が複数の住民から入っていた。

9月10日、国家運輸安全委員会のチームは爆発が発生した原因の調査を開始した。

9月13日、パシフィック・ガス・アンド・エレクトリック・カンパニー(PG&E)は爆発の犠牲者のための基金に100万ドルを充てることに合意した。このことは、住民がPG&Eに対しこれ以上のアクションを起こすことを妨げるものではない。爆発した破片は資料として数日後にワシントンD.C.に送られた。
海軍施設

第二次世界大戦中、アメリカ海軍はリチャード・スニースが拓いた酪農場があった場所に基地を建設した[26]。海軍高度兵站基地などがこの場所で運用された。終戦後も運用が続けられ[27]サンフランシスコ・ベイエリアで運用されていた複数の海軍基地が統合されて海軍施設技術部隊西部地域本部となった。1993年、基地の閉鎖・再編が行われ、近隣の基地も再編が勧められたため、海軍は施設の閉鎖を決定し、1994年10月に遂行された。
地理

市はサウスサンフランシスコミルブレーの間に位置している。サンフランシスコ国際空港やゴールデンゲート国立墓地に隣接しており、サンフランシスコのダウンタウンからは約19q南にある。

アメリカ合衆国国勢調査局によると、市域全面積は14平方マイル (5.5 km2)で、全域が陸地である。市域はサンフランシスコ湾からサンタクルーズ山地の山麓まで広がり、クレストムーアでは標高約180m、ポルトラ・ハイランズでは標高約210mである。サンブルーノ市役所の公式な標高は12.5mとなっている。

ミルズ・パーク、クレストムーア、ローリングウッドの一部は険しい峡谷が特色となっている。丘陵部の泉から発した川の多くは、市内を暗渠で流れてサンフランシスコ湾へと注ぐ。スカイライン・ブールバードのすぐ西側で、市域の外側にあるサンアンドレアス湖は、サンアンドレアス断層から名前がとられている。この湖はサンフランシスコ水道局が運用している貯水池のうちの一つで、サンブルーノ市の州間高速道路280号線より西側の地域を含む、サンフランシスコやサンマテオ郡のいくつかの自治体に水を供給している。
気候

サンブルーノは地中海性の温暖な気候を享受している。涼しく乾燥した夏と、肌寒い程度の寒さで湿度の高い冬に特徴づけられる。

1927年以降、アメリカ国立気象局(かつての気象局 )はサンフランシスコ国際空港(以前のミルズ・フィールド)に気象台を整備している。公式観測記録によると、1年で最も寒いのは1月で平均最高気温は13.3°C、平均最低気温は6.1°Cである。

霜は冬の数ヶ月に時折降りることがある。降雪は非常にまれだが、1962年1月21日には3.8cm(クレストムーアでは約10cm)の積雪を記録した。他には1932年12月11日、1976年2月5日に降雪が観測された。近年では1988年12月27日、1989年1月8日、1996年2月24日にも降雪の跡が報告されている。

氷点下まで気温が下がるのは、1年で平均1.3日しかない。観測史上最も低かった気温は、1932年12月11日に記録された-7°Cであった。この日に2.5cmの積雪が観測された。1972年12月には厳しい寒波がこの地域一帯を1週間にわたって襲った。樹木や植物に被害があり、水道管の破裂も起きた。気温は空港で-4°C、クレストムーアで‐7°Cまで下がった。


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