サンフレッチェ広島
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チームマスコットは、中国山地に生息するツキノワグマをモチーフとした「サンチェ」と[2]、サンチェの彼女(設定時。現在はただのお友達)として2000年に誕生した「フレッチェ」[2]

エンブレム2005年1月10日(公式発表)に設立当初のものから現在のものに変更された(ロゴは変更なし)[10]

ホームスタジアムはエディオンピースウイング広島[11]、練習場は安芸高田市サッカー公園[2]。詳細はスタジアムの項および練習場・キャンプ地の項を参照。

なお、育成組織についてはサンフレッチェ広島F.Cの育成組織を参照のこと。他に、女子チームとしてWEリーグ所属のサンフレッチェ広島レジーナを保有する。

グッズはエディオンピースウイング広島バックスタンド2階にあるピースウイングオフィシャルストア、あるいは サンフレッチェ広島オフィシャルオンラインショップ で購入できる。ワンタッチパス対応ICチケットはPASPY一体型と1試合のみ試験的に発売したキーホルダー型の2種類存在する(詳細は下記#関連情報参照)。
歴史
前史(マツダ時代)詳細は「東洋工業サッカー部」を参照

1938年に創部された前身の東洋工業蹴球部は、サッカーどころ広島を代表するクラブとして、長く全国屈指の強豪チームとして活躍してきた。しかし、1970年代に入ると徐々に低迷し、1980年代に入ると、JSL2部へ2度降格した。1981年マツダサッカー部(マツダSC)に名称変更[注 2]1982年今西和男がサッカー部総監督に就任、のちに日本サッカー界に多大な影響を与えたハンス・オフトをコーチに招聘した[12][13]

低迷の原因が地方のハンデキャップによる有力新人獲得の不足[注 3]と見た今西とオフトは、クラブ全体の育成路線を推し進め、サテライトチームのマツダSC東洋クラブを強化し、中国サッカーリーグに参戦。若手により高い実戦経験を積ませることで戦力の底上げを図った[12]。ここからは、後にオフト自身により日本代表に選出された森保一をはじめ、Jリーグ初期を支えた主力選手が多く生まれた[14]サンフレッチェ広島F.Cの育成組織#前史参照)。また選手のみならず指導者育成にも着手し、ここから小林伸二をはじめとする数多くの指導者を育てた[15][16]。ここで確立されたさまざまな方針は、現在の広島にも連綿と受け継がれている[17][18]

すでに動き出していたプロ化への布石として、当時ドイツ・ブンデスリーガで活躍していた風間八宏を獲得。彼のプロ意識は、クラブに大きな影響を与えた[13][19]
Jリーグ創設前夜

プロリーグ設立に向け着々と準備が進む中で、地域バランスの上からマツダSCも参加を強く要請されたが、母体となるマツダは財政的理由から降りようとした。そこへ、野村尊敬県サッカー協会会長をはじめとする多くの関係者・市民により参加要望運動が起き、それらの代表となった竹下虎之助県知事とマツダの古田徳昌社長とのトップ会談が行われた。会談翌日の1991年1月23日、正式にプロリーグ参加を表明。同年2月、プロリーグ参加10団体(オリジナル10)発表。西日本では兵庫県以西で唯一、中国地方唯一の参加となった[20][21]

同年11月プロクラブ化に向け、旧広島県立美術館2階ロビーの四畳半ほどのスペースに、スタッフ4人からなる設立準備室を置いた[22](チーム名やチームカラー決定経緯については#チーム名およびチームカラー節を参照)。

1992年4月24日、広島県・広島市・マツダ・ダイイチ(後のデオデオで現エディオン)・中国電力広島銀行など59団体の出資により設立。筆頭株主はマツダとなり、初代社長にはマツダ社長を退任した古田徳昌が就任、本社事務所を広島クリスタルプラザ4階[22] に置いた。当初、母体となったマツダが財政的に支えきれそうになかったため[21]、地元企業を中心に出資団体を募った[20]

また、Jリーグ開幕に向けマツダSCは東欧北欧へ遠征し当地のクラブチームと強化試合を行った。そこでハルムスタッズBK監督だったスチュワート・バクスターサッカーチェコスロバキア代表選手達と出会い、スカウトすることになる[13][23]
1992年 - 1994年(バクスター時代)バクスター

1992年、バクスターが監督に就任。イワン・ハシェックパベル・チェルニー盧廷潤ら能力重視で独自路線の外国人補強を行った。フジタから高木琢也(マツダ時代の1991-1992年シーズンから加入)、富士通から小島光顕などJリーグに参加しないチームから日本人を数名補強した。

クラブにおけるJリーグ初ゴールは風間によるものであり、これはJリーグにおける日本人初ゴールでもある[24]

当初は引退しコーチをしていたヤン・ヨンソン松田浩望月一頼を現役復帰させるほど選手層が薄く、1992年のヤマザキナビスコカップでは、10チーム中9位に終わった。しかし徐々に戦術が浸透すると、高木・前川など日本代表クラスの選手や、チェルニー・盧・ハシェックらの外国人勢が活躍し、1994年にサントリーシリーズで初優勝を果たした[23][25]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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