一方、カリフォルニア州公園・レクリエーション局の運営する州立公園は、キャンドルスティック・ポイント州立レクリエーション地域だけである[32]。
ゴールデン・ゲート国立保養地は、面積3万3000haの自然保護区である。アメリカの国立公園の中でも訪問者が多く、年間1300万人が訪れる。サンフランシスコ市内にあるいくつかの公園と、ほとんどのビーチがこの国立レクリエーション地域に属する。オーシャン・ビーチは太平洋に面し、サーフィンがさかんである。ベーカー・ビーチは、ゴールデン・ゲート海峡の西の入江にあり、昔の要塞であるプレシディオの一部に当たる。プレシディオの中には、クリッシー・フィールドという公園もある。ここは、以前は飛行場であったが、自然の姿であった塩沼を復元している。国立レクリエーション地域の中には、そのほかフォート・ファンストン、ランズ・エンド、フォート・メイソン、アルカトラズ島もある。これとは別に、アメリカ合衆国国立公園局が管理する公園としてサンフランシスコ国立海洋歴史公園がある。 この土地に人が居住していた最古の痕跡は、紀元前3000年に遡る[33]。 ガスパル・デ・ポルトラ率いるスペイン人の入植者が1769年11月2日に到達した。記録されている中ではヨーロッパ人による最初のサンフランシスコ湾到達ではある。しかし、それまではインディアン部族オーロネ族のグループがいくつかの小さな村に分かれて住んでいる状態であった[34]。その7年後の1776年3月28日、スペイン人によってサンフランシスコ要塞 1821年、スペインからのメキシコ独立革命により、この地はメキシコの一部となった。メキシコの統治の下、伝道所の制度は徐々に廃止され、その土地は民営の牧場に転換されていった。1835年、イギリス人ウィリアム・リチャードソンが現在のポーツマス・スクエアに当たる船着場近くに初めて独立の自作農場を作った[35]。彼は、フランシスコ・デ・ハロ市長とともに街路計画を立て、「イェルバ・ブエナ」と名付けられたこの街にアメリカの入植者が集まってくるようになった。米墨戦争中の1846年7月7日、アメリカ軍のジョン・スロート代将がカリフォルニアをアメリカの領土と宣言した。翌1847年、イェルバ・ブエナはサンフランシスコと改名され[36]、メキシコはグアダルーペ・イダルゴ条約で正式にこの一帯の領地をアメリカに割譲した。サンフランシスコは、港として、また海軍基地としても絶好の立地にあったが、当時はまだ住みにくい小さな植民地であった[37]。 ところが、カリフォルニア・ゴールドラッシュによって、金を求めて多くの人が押し寄せた。サワードウ・ブレッドを携えた人夫[注 1] がこの街に集まり、人口は1848年の1000人から1849年には2万5000人へと増加し[38]、競合するベニシア
歴史
先史
スペイン入植サンフランシスコ・ド・アッシス伝道所
メキシコ統治からアメリカ領土化
ゴールドラッシュ1851年のポーツマス・スクエア。
一方、短期間に多くの移民が殺到したことから、1850年代には財産や自由、人倫を保護する名目で自警団がたびたび組織された。1856年5月には連邦政府の警察権や司法権を超越した数千人規模の自警団が作られ、約3か月の間事実上の軍政状態となった[41]。1850年協定によってカリフォルニアは州の資格を得、アメリカ軍はサンフランシスコ湾を防衛するためゴールデンゲート海峡の砦フォート・ポイントと、アルカトラズ島の砦を築いた。1859年のカムストック鉱脈をはじめとする銀の発見も、急速な人口増大を更に後押しした[42]。鉱山の一旗組の中には無法者も多く、バーバリコースト地区は、犯罪、売春、ギャンブルの巣窟として悪名をとった[43]。
ゴールドラッシュで成功した多くの企業家が、その財を元手に事業を展開した。1852年にはウェルズ・ファーゴが設立され、1864年にはカリフォルニア銀行が設立された。 サンフランシスコ港
交易都市として発展