サンピエール島・ミクロン島
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由来島の名をつけたジャック・カルティエ

1520年、ポルトガル人航海者ジョアン・アルヴァレス・ファグンデスは、ケルンのウルスラに敬意を表して(上陸日が聖名祝日であった)、群島を『1万1千人のおとめ群島』(l'archipel des onze mille vierges)と名付けた。その後1536年6月に航海中であったジャック・カルティエは聖ピエール島(Isle Sainct Pierre)と名付けた。ピエール(ペトロ)は漁師の守護聖人である(同様に、アンドレパドヴァのアントワーヌミラのニコラ、ヴェローナのゼノンも漁師の守護聖人である[3])。

ミクロンという名は、ニューファンドランド島へ向かう途上であったバスク人船長マルティン・オヤルサバルが、16世紀に記した航海マニュアルにおいて、Micquelleという形で見いだせる[4][5]。ミクロンというのはおそらく、ミシェル(Michel)という人名から派生したものと考えられる[6][7]。なお、この人名に対応するバスク語での形は、厳密にはミケル(Mikel)となる[8]

隣接する島の名称、ラングラードは1610年から1675年にTerra England、1670年のヴィシェール地図においてLanglois、1674年のドニ・ド・ロティス地図でc dangleterre[9]、1675年のソーントン地図でLanaloy、1675年にI anglois miclon、1677年にAngueleterraco、1693年にLanglois、1694年にCap de Langlais、1700年と1719年、1721年の地図ではLangloisというつづりであったことが証明されている[10]
歴史

島を訪れたのはパレオ・エスキモー人(fr)である[11]。それは、グロスウォーター人(紀元前800年から紀元前100年頃。古パレオ・エスキモー人)、そしてドーセット人(西暦100年から900年頃、ドーセット文化を生み出す。新パレオ・エスキモー人)である[12][13]。1100年から1500年の間に、ベオスック(fr)の祖先たちがサン=ピエール島のアンス・オ・アンリに居住地をかまえた。
植民地化

アンリ=フェリックス・ド・ラモットは、19世紀後半にサンピエール島およびミクロン島の司令官その後総督となった

1713年以降、ユトレヒト条約によってヌーヴェルフランスはサンピエール島およびミクロン島を失った

1759年のケベック征服は、サンピエール島およびミクロン島がフランスに復帰する1763年のパリ条約の源となった

ポルトガル人航海士ジョアン・アルヴァレス・ファグンデスが島に上陸した1520年10月21日の日付が、発見日としてしばしば引用されるが、島の発見はもっと古かった可能性がある。1497年にジャン・カボットが発見していたというものである。また、航海者たちの間で1524年にヴェラッツァーノが発見していたと引用されている。ともかく、16世紀に島々はノルマン人漁師、ブルトン人漁師、バスク人漁師の拠点となり、バスク人漁師が最初に恒久的な拠点を築いたのは1604年にさかのぼる。バスク人たちはそこで捕鯨を行っていた(北アメリカでの捕鯨が早くから行われていたことを参照すれば、日付がさらに古くなる)。捕獲されていたのは間違いなくヒゲクジラ(バスククジラとも呼ばれた)、ホッキョククジラコククジラであった。こうした漁師たちの生まれが、サンピエール島およびミクロン島の旗に表現されている。

しかし、18世紀、1713年にユトレヒト条約が批准され、コート・フランセーズ・ド・テール=ヌーヴとして知られる、ニューファンドランド島沿岸で独占的に漁業を行う権利がフランスに付与されると、島は放棄された。その後、1763年のパリ条約で、サンピエール島およびミクロン島はフランスに復帰した。アメリカ軍とフランス軍に敗北した後、ノバスコシアに駐留していたイギリス軍は島々を攻撃し、1755年に住民たち(アカディア人追放によって生まれた難民たちを含む)を国外追放とした。しかし、群島は1783年のヴェルサイユ条約で再びフランス領となった。

数名の著名な旅行者が未開発の島々を訪れた。1768年に地理学者ジャン=ドミニク・カッシーニ、1791年には文筆家シャトーブリアンが訪れ、著作『墓の彼方の回想』において群島を不滅のものとした。

フランス革命のさなか、アカディア人のコミュニティはマドレーヌ諸島に避難するために突然ミクロン島を離れた。それは、サン=ピエール島の共和国派運動が、1793年の新たなイギリスの攻撃で突然終了したからである。ルイ18世による復古王政まで、フランス領サンピエール島およびミクロン島に対してイギリスの攻撃が減少することはなかった(当時のノバスコシアはイギリス領であった)。
植民地の発展と初期の繁栄

北アメリカとニューファンドランドの漁場への途上にある簡素な足跡、そして古のヌーヴェルフランス最後の名残である、漁師が暮らす小さなフランス植民地を研究する当時の著名な訪問者の中には、1850年代に訪れた外交官で文筆家のアルテュール・ド・ゴビノー、1888年から1890年まで群島に滞在した医師アルベール・カルメットがあげられる。

19世紀後半、タラ漁のおかげでサンピエール島およびミクロン島は著しい経済成長を遂げた。

群島はフランス領植民地であったためアメリカの法律(ボルステッド法)が適用されず、アメリカの禁酒法時代に特別な役割を果たした。1919年から1933年にかけて、カナダおよびアメリカ沿岸にフランス産ワインとウィスキーを密輸する、酒の密貿易で真の繁栄を享受した。カナダで建造されるか、サン=ピエール島民が組み立てたスクーナー船かスピードボート(ラム・ランナーと呼ばれた)で酒を密輸したのである。これがブートレッガー(fr、酒の密輸業者)の時代である[14]

1933年に禁酒法が解除されるまで、年間最大30万ケースのアルコール飲料が群島を通過した。アルコール飲料のケースに使われた木材は島で放棄され、燃料に使われるか、全体が同名の酒の木箱で建てられたヴィラ・カティ・サークを含む多くの住宅建設に使われた[15]。1970年代には、酒のケースやフランス産シャンパンの板で覆われた小屋がサン=ピエール島にまだあった。

ニューファンドランドの船乗りたちは木箱に入った酒を受け取った。彼らはジュート袋に酒を移し替えて、木材を回収した。密輸船がアメリカの沿岸警備隊の船に妨害されると、警備隊が前進してくる船の反対側で、酒の入った袋を海に投げ込めば十分だった。袋はすぐに沈んだ。警備隊の乗員が乗り込んだ時には、密輸の痕跡は深海に沈んでしまっていた。貨物は失われたが、犯罪者を刑務所での苦しみから救った。密輸で逮捕される危険は、送料の一部に上乗せされており、受取人が支払う法外な金額を正当化していた。これにより、本当にヨーロッパから輸入された酒よりも、安価な密造酒が広まることになった。
第二次世界大戦

第二次世界大戦中、1940年6月22日の停戦とドイツ軍によるフランス一部占領の後、サンピエール島およびミクロン島はヴィシー政府管理下に置かれた。

群島の総督ジルベール・ド・ブルナは、フランスの金準備金で賄われた助成金を手に入れるため、アメリカ当局と交渉しなければならなかった。彼は直属の上司であるジョルジュ・ロベール提督から委任されたのである。提督は、1939年9月に西大西洋地域担当高等弁務官(グアドループ、マルティニーク、サンピエール島およびミクロン島、フランス領ギアナに対する権限を持つ)に任命されていた。

同じ時期に、隣国カナダは、アメリカ政府の後援で、サンピエール島およびミクロン島を占領するための上陸計画を準備していた。ヴィシー政府のプロパガンダ放送を行うラジオ局が群島に所在することを含む、いくつかの口実が提示された[16]。一部の人々は、このラジオ局がニューファンドランドの漁場で活動するドイツのUボートを支援したとさえ主張していた[16]。カナダ首相マッケンジー・キングはこうした計画の実行を許可しなかった。


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