また、ラテン音楽の一つに分類されるものの、ブラジルは中南米で唯一ポルトガル語を公用語とする国であり、また使用する楽器もサルサやマンボなどのラテン音楽の楽器とは異なるものが多いので、正確にはラテン音楽には入らないという意見もある。
もともとは黒人を中心とする「奴隷労働者階級の音楽」ゆえに、歌われる内容といえば、生活そのものを題材としたもの、人種差別や政治体制への批判などが中心であったが、後に白人を中心に比較的穏やかなリズムで叙情的な内容も歌われる、Samba Cancao(サンバ・カンサゥン)なども生まれた。この時期にはサンバ・カンサゥンの女王と呼ばれる大歌手であるエリゼッチ・カルドーゾも現れている[3]。サンバ・カンサゥンはさらに発展し、1950年代後半から1960年代前半には、アメリカの音楽などの影響を受けた中産階級の若者たちを中心に、リズムをさらにシンプルにし、叙情的な歌詞をのせて歌うサンバ・ボサノヴァ (Samba Bossa Nova)が成立し[6]、流行をみせた。また1960年代から1970年代にかけては、リオデジャネイロの黒人文化だったモーホのサンバが再発見され、受入れられていった[3]。1980年代には、数人編成で演奏するスタイルPagode(パゴーヂ)が成立。大規模なカルナヴァル(カーニバル)のサンバに対して、パゴーヂの個人パーティー的で周囲の皆で共に合唱できる気軽さが受け、大流行している。
なお、サンバは多岐にわたり、細かいものを含めるとリズムやスタイルは100を越えるといわれ、それぞれに名称がつけられている。
ダンスとしてのサンバ女性ダンサー
上記の通り、サンバは17世紀に、バイーアに住んでいたアフリカ人奴隷の踊りが元となっている。その後、楽器や音楽だけでなく言語や特定の詩の形式といったポルトガルの文化的要素が融合し、リズムや踊り方が変化した。音楽を演奏しながら周りで手を叩きながら輪を作って踊り、交代で人が中に入って踊る。これをSamba de Roda[7](サンバ・ジ・ホーダ、サンバの輪)といい、アフリカ系ブラジル人の地域的大衆文化の一大要素へと発展した。バイーアからリオへ人々が移住するとともに、サンバ・ジ・ホーダは、20世紀のブラジルの国家的アイデンティティーの最大のシンボルとなった都会のサンバの進化にも影響を与えた。
サンバの踊り方は足や腰の動きを基本とし、ほとんど即興である。Bantu(バントゥー系民族)の影響であるUmbigada(ウンビガーダ)と呼ばれる、へそをくっつけあうような踊りがサンバのルーツの一つと言われる。またサンバ・ジ・ホーダにはMiudinho(ミウジーニョ)という男性が細かくステップを踏む独特な踊りもある。これらがショーロやルンドゥーなどと混ざり合い、現在のサンバと発展してきた。
したがって、現在のサンバショーにおける振り付け(コレオグラフィー)は現代的かつ欧米のダンスショーの形式を取り入れたもので、あくまでもサンバは基本的に即興の踊りが中心で、またその醍醐味であるとされる。したがってサンバパレードにおけるダンスはサンバ・ノ・ペという、いわゆるサンバステップをもとに様々なバリエーションを個人個人が表現することが本来のサンバのダンスといわれている。なお、サンバパレードにおけるサンバステップに長けたソロダンサーは、Passista(パシスタ)といわれる。
また、サンバはカルナヴァルだけでなく、サロンやダンスホールで行われるペアダンスもある。ただし同じペアダンスでも、社交ダンスや競技ダンスのサンバとはまったく異なる。なお、ブラジルにおけるサンバのペアダンスは、Samba de Gafieira(日本での略称はガフィエイラ、ガフィエラ、ブラジル本国ではサンバ)といわれる。また日本での愛好家も多い。 ブラジルの各都市で行われるカルナヴァルでは、毎年、Escola de Samba(エスコーラ・ジ・サンバ(略してエスコーラ)というチーム単位で順位、優勝を競い合う[8]。
カーニバルのサンバ