1960年代にはサンバに、ソウル、R&B、ファンクなど他の黒人音楽のジャンルを融合する動きも出てきた。代表的なバンドには、バンダ・ブラック・リオがいた。その後、70年代にはジャルソン・キング・コンボ、90年代にはカルニーニョス・ブラウンらのファンキーなミュージシャンが登場した。 日常において歌われるサンバをRoda de Samba(ホーダ・ジ・サンバ)、Pagode(パゴーヂ、パゴージ)という。昔はパゴーヂをホーダ・ジ・サンバといっていたが、1980年代に白人女性であるベッチ・カルヴァーリョが活躍し、カシーキ・ジ・ハモスというブロコ兼サンバ・コミュニティーで主となって活動するバンド、フンド・ジ・キンタウ
パゴーヂ
また、21世紀のブラジルでは、サンバのリズムをベースとしたポップスを差すひとつのジャンルとしてパゴーヂという呼称が使われることが一般的であり、もっともポピュラーな音楽のひとつとなっている。
2016年はサンバ誕生100周年とされ、ブラジルではこれを記念して記念列車の運行など様々なイベントが行われた[17]。
歴史
1763年 首都をサルバドール(バイーア)からリオデジャネイロへ遷都、黒人奴隷がリオへと流れていく。
1855年 パレードのカルナヴァレスコ(演出家)が登場。
1889年 カルナヴァルでシキーニャ・ゴンザーガ作のマルシャ・ハンショの第一号とされる“O Abre Alas”が発表される。Rancho(ハンショ)とは、カーニヴァルでマルシャやマシーシを演奏しながら練り歩く楽団のことで、管楽器、弦楽器、打楽器に歌というのが通常の編成だとされている。
1890年 奴隷制度が全廃。
1902年 リオ都市整備計画により、解放された2万5千人を越える黒人たちがリオへ流入。
1907年 カルナヴァルでアフォンソ・ペーナ大統領の車列がリオ・ブランコ通りをパレード、このことが大々的に報道されると、プロパガンダとして政府からカルナヴァルの予算が計上されるようになる。
1908年 6月18日、神戸港から笠戸丸がサントス港に到着。
1913年 Tenente do Diadoという集団が日本をテーマとした山車でパレード。
1911年 “Em Casa da Baiana”がレコードで発売。
1917年 “Pelo Telephone”がレコードで発売。
1920年 Cordaoと呼ばれる集団が大きくなり、Bloco(ブロコ)と呼ばれるようになる。
1928年 8月12日、最初のエスコーラ・ジ・サンバとされるDeixa Falarが創立。
1930年 1月1日、サンパウロではVai-Vaiがエスコーラとして登録。
1932年 公式に初のカルナヴァルが開催され、5チームが出場、プラッサ11(オンゼ)から出発した。
1938年 4月28日、Mangueiraがエスコーラとして1928年4月28日に創立したとの証書を登録。
1978年 8月25日、Portelaがエスコーラとして1926年4月11日に創立したとの証書を登録。
サンバのジャンル
パルチード・アルト(Partido alto)
パゴーヂ(Pagode)
サンバ・エンヘード
サンバの演奏形式毎に、使用される楽器は異なる。