サンバ_(ブラジル)
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毎年、これによってサンバ・パレードが繰り広げられ、パレードの審査を行うコンテストによって順位が決定される[10]。中には数千人が参加するエスコーラも存在する。これは競争社会のピラミッド構造となっており、上からグルーポ・エスペシアゥ(特別グループ)、グルーポA?Dと続く。サッカーと同じくそのグループで最下位となれば翌年は下位のグループに格下げとなる[8]。そのかわりに下位のグループで優勝すれば翌年は上位のグループに昇格しそこでまた競うことになる。これらの大規模なパレードはかつてはその都市のメインストリートで行われていたのだが、1983年にリオデジャネイロにおいてサンボードロモ・ダ・マルケス・ジ・サプカイが建設されて以降、大都市では次々と専用スタジアムであるサンボードロモが建設され、ここでパレードが行われることとなった[11]

なおエスコーラ・ジ・サンバとは、直訳すればサンバの学校という意味だが、もともと学校の近くで始めたということから、洒落でつけられたものである。もちろん指導者は存在するが、先生や生徒が存在するわけではなく、先生が生徒に教えるという性格の学校や教室などとは異なる。どちらかというと地域に根ざしたリクリエーション団体という性格が強い。したがって近年ではGremio Recreativo Escola de Samba(グレーミオ・ヘクヘアーチヴォ・エスコーラ・ジ・サンバ(略称:G.R.E.S.)という。

ただし、近年のカーニバルはあまりにも観光的・商業的になり、またエスコーラが麻薬や賭博など犯罪組織の温床ともなっていることなどから、エスコーラから離れたり、また距離をおくサンバのミュージシャンも多い。そのような昔のサンバを知る人は「昔のサンバはよかった」というのが口癖となっている。またそれらの人々はエスコーラなどの組織を離れて、それより比較的自由なブロコ・カルナヴァレスコ(略称:B.C.ブロコはブロック、つまり塊りの意、カルナヴァレスコはカーニバルが好きな人などと訳す)を結成したり移る人もいる。ブロコはエスコーラのようなコンテストとは無縁なのでサンボードロモではパレードせず、リオ・ブランコ通りなど街中でパレードし、比較的庶民的で地元と密着しているのが特徴的である。しかしブロコといっても人数的にはエスコーラのように数千人規模のものもあり、またモノブロコやシンパチアといった有名なブロコには外国人の参加も多い。

サンバは貧しい黒人のもの、という偏見もある。この傾向は日系ブラジル人の一世が特に多いといわれる。またブラジル人の中にもサンバが苦手な人や興味のない人も多く、そういう人たちは、カーニバルの時期になると喧噪から離れるようにリゾート地へ行くことも多い[12]

また、サンバをやっている人を総称してSambista(サンビスタ)というが、日本ではサンバチームで活動している人を中心に、何らかの形でサンバに関わっている人すべてをそう呼ぶ場合がある。つまりサンバはやっているがサンバの曲や演奏方法の違い、またバテリアの構成や人数編成などを知らない人をも広義でサンビスタと呼ぶことも多い。しかしこれは適切ではない。あくまでもサンバが好きで好きでたまらず、サンバについてよく理解し、損得勘定関係なく身体の髄からサンバが沁みこんでいるような人のみを指して、Sambistaと呼ぶのが正しいとされる。これに対し金の為にサンバをやっている人や、サンバをよく知らないのにサンバをやっている人をSambeiro(サンベイロ)と呼び卑下する場合もある。
サンバの背景と歴史
移民と奴隷

1500年にポルトガルによってブラジルが“発見”されて以降、ポルトガルはアフリカ西海岸を中継地とし、アンゴラベニンコンゴモザンビークを植民地とし、そうした種族の異なるアフリカ人奴隷をブラジルに連れて行った。当時ブラジルは未開発の地であったため、そうした奴隷の労働力を欲していた。したがって同じアフリカ人でも言語や習慣も異なった種族がブラジルで出会った。当初彼らのある部族が違う部族をポルトガル人に“売った”こともある。また当時は違う部族同士で敵対するなどもあった。

なお、1815年にはウィーン会議で、ようやく奴隷貿易が禁止決定がされたが、奴隷制度そのものを廃止したわけではなかった。
アフロ・ブラジレイロ文化の開花

1700年当時には“Zamba”、“Zambo”、“Zambra”、“Semba”と呼ばれる、奴隷達の娯楽音楽がすでにあったと記録されている。この頃から次第に違う部族同士がポルトガル語を強要され、また生活を共にすることから、その対立が融和されていった。

アンゴラの奴隷を中心としてカポエイラが生み出されたが、当初“タンボール”という楽器だけだったが、“アタバキ”、“ビリンバウ”、“パンデイロ”(アラブ起源といわれる)、“アゴゴ”、“ヘコヘコ”などが加わり、リズムの幅が豊かになった。

また、“ジョンゴ”、“マクレレ”、“タンボール・ジ・クリオゥラ”、“マシーシ”、そして“ルンドゥー”や“バトゥーキ”が生み出されていった。ルンドゥーは、もとは白人が庭先で舞踏会の振り付けを踊っていたものを黒人が真似したが、黒人の場合はもっと優雅にゆっくりと踊るのが特徴であった。打楽器演奏であるバトゥーキにあわせてダンスする時に“ウンビガーダ”(ヘソ踊り)といい、ヘソをくっつけあうように腹をあわせて踊った。しかし、これを見たカトリック影響下にある白人たちにより、ウンビガーダはエロティックだとして踊るのを禁止されてしまった。

なお、サンバはリオに限らず他の都市でも息吹いていた。サンパウロではピラポーラ地区をはじめとして“コンガーダ”や“バトゥーキ”といった多様なリズムが生まれた。サンバはそれぞれの地域で異なるスタイルが生まれていた。
サンバの誕生とカルナヴァル

“Samba”という名称が初めて明らかになったのは、1838年にカトリック教会のLopes Gama神父が“Samba d'almocreve”と称して、奴隷の文化として新聞に紹介したことによるものである。神父は黒人の文化だけでなくポルカワルツ、ルンドゥー・カンサゥンといった白人の文化も紹介している。

当時、黒人達はウンビガーダが禁止されたことで、名称をサンバと変えただけで、その踊りのスタイルもほとんど同じで続けていたという。この頃のサンバはアフロ文化に根づいたもので、現在のように洗練されたものでなかった。この神父のレポートによって多くの民俗学者が注目、これらは今日でも論文や調査報告となって残っている。時代を経ると、サンバは多様化し、“サンバ・ルラゥ”、“サンバ・ジ・ホーダ”、“サンバ・ドゥーロ”、“サンバ・レンソ”など多くのリズムやスタイルが細分化していった。

カルナヴァル(カーニバル)は、ブラジルでもポルトガル人によって行われた。ドン・ペドロ2世も参加していたという。ただし当時のカルナヴァルは、カトリックによって粛々と行われるというイメージとは反し、宮殿内で水を掛け合うなどといった乱痴気騒ぎに近い祭りであったと記録されている。水は悪霊や災禍を追い払うという意味をもっていたためとされる。また一般市民も路上で、水だけでなく灰や小麦粉などもかけ合い、ルールもなにもなかった。したがって時として喧嘩に発展することも往々にしてあった。しかしそれも後にレモン水や香料を入れた水をかけるようになっていった。このように、カルナヴァルでは人種や年齢など関係なくすべての人々が楽しんだ。

1763年にブラジルはサルヴァドールバイーア)からリオデジャネイロ(以下リオと表記)へ遷都。次第にリオへ奴隷が流入される。1800年代になると、カルナヴァルのシンボルとして“Rei Momo”(ヘイ・モモ、カーニバル王国の王様)が誕生。1850年に“ゼー・ペレイラ”というカルナヴァル伝説の男が誕生、ブロコ・コルドンィスといったグループが彼を讃えて行進した。しかし当時はまだ異なる人種同士が一緒にパレードすることはなかったといわれる。また、この頃には“タンボール”や“ボンボ”、“ザブンバ”といった楽器を使ってパレードを行うようになる。

1888年には奴隷制度が全廃。1902年にリオの都市整備計画が実行され、バイーアはじめペルナンブーコなど各地にいた奴隷たちがリオ市内に移住しはじめる。また現在のファヴェーラであるモーホ(丘)と呼ばれる居住区が形成されていった。
バイアーナとドンガ

バイーア出身の女性(主におばさん)をバイアーナといい、現在カルナヴァルでのエスコーラのパレードには、バイアーナスというグループ隊列の存在が必須条件となっている。これはサンバのルーツを表していることに由来する。またエスコーラの中でもバイアーナたちは非常に重要なポジションである(なお、エスコーラについてはエスコーラを参照されたい)。

なぜならば、バイアーナは“サンバの母”といわれる存在であり、サンバを生み出した存在とされているからである。彼女達は“Tia”(おばさん)と呼ばれ、彼女たちが自宅でパーティーを開き、多くの人たちをもてなした。中でも有名なのは“チア・シアータ”で、彼女の家にはジョアン・ダ・バイアーナ、エイトール・ドス・プラゼーレス、ピシンギーニャ、シニョー、そしてドンガといった、現在のサンバやショーロのルーツを築いたとされる人物が集まっていた[13]

当時、シニョーはボヘミアンだったが白人で英才教育も受けていたためか、他の参加者と少し異なり、エイトールやピシンギーニャ、またドンガを皮肉ったり、明らかに容姿などを軽蔑した曲を作ってカルナヴァルで発表した。また彼らも返す刀でシニョーを批判する曲を作った。エイトールは彼を自作曲を盗作したとして非難したりしている。またイズマエル・シルヴァは「ドンガの曲はサンバじゃなくマルシャだ」と言うと、ドンガも「イズマエルの曲はサンバじゃない」と批判した。イズマエルはカルトーラと不仲だったことも伝えられている。このように当時は個人攻撃や対立がそのエネルギーとなり曲作りを競い合っていた。シニョーは多くのライバルを批判したが、のちに政府の検閲制度を批判し警察に追われることにもなった。現在サンバは政府や社会を批判する一面を多く持っているが、もとをたどれば、この当時にその源流を垣間見ることができる。

この頃のカルナヴァルでは、まだサンバは主流ではなく、“マルシャ”や“マルシャ・ハンショ”など数多くのスタイルが乱雑に存在した。中でもマルシャは多くの作曲家による佳作が残されている。またドンガもシアータおばさんの家に出入りしていた。一般的に最初のサンバといわれる作品は、1916年12月16日登録、1917年発売のドンガ&マウロ・ジ・アルメイダ作“ペロ・テレフォーニ”(“電話で”の意)といわれる。これには異論もある。

これに先立つ1911年インストではあるが、“Em Casa da Baiana”が“Samba Partido Alto”という名目で発売されているほか、1912年に“Descascando o Pessoal”、1913年にはバイーア出身の歌手ジュリア・マルチンスによる“Viola Esta Magoada”、1914年に“Urubu Malandro”、1915年に“Samba”という名目でレコードが発売されていることによる。

またドンガの“電話で”が公式のサンバとされるまでに紆余曲折があった。当時は著作権の認識がまったくないため、ドンガは国営図書館に譜面を登録した際にサインをしなかった。しかしこの曲がラジオで流れてヒットすると、別の作曲家が自作曲だと主張した。今では、実際には多くの人の手が加えられて出来上がった曲だと考えられている。しかし当時は周囲の人たちがドンガを支持。チア・シアータも彼からその曲を聞かされたとして証言した。そしてドンガが亡くなった後にドンガ作であると認められた。
カルナヴァルの集団化


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