サンチョ4世_(カスティーリャ王)
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この間、ヤアクーブが何度か再上陸してスペイン南部を略奪して回ったが、既にカスティーリャはサンチョ4世の下で纏まり分裂する恐れは無くなった[2][4]

1282年に大叔父モリナ公アルフォンソ(レオン王アルフォンソ9世王子)の娘で従叔母に当たるマリア・デ・モリナと結婚した。しかし両者が血縁のためローマ教皇から許可を取れず、フランス王フィリップ4世を仲介者として許可を取ろうとして失敗、使者としてフランスへ派遣されたバリャドリッド修道院長ゴメスは責任を取らされ投獄されている[5]

マリーン朝の上陸を防ぐため、1291年にサンチョ4世は遠征を行い、グラナダ王ムハンマド2世の援助を受け取り翌1292年タリファアンダルシア州)をマリーン朝から奪い[6]、おじのドン・ペドロを捕らえた。戦後タリファをムハンマド2世に与える約束を破り自ら領有したため、グラナダとマリーン朝が再び手を結んでタリファを包囲したが、守備隊長アロンソ・ペレス・デ・グスマン(メディナ=シドニア公家の先祖)が包囲を耐え抜きカスティーリャ領に留まったことで、マリーン朝の上陸地はアルヘシラスジブラルタルだけになった[7]1293年アルカラ・デ・エナーレスマドリード・コンプルテンセ大学の原型となる学術機関を創設した。

1295年、トレドで36歳で死去。直前に王妃マリアをまだ9歳だった息子フェルナンド4世の摂政に任じた。
子女

王妃マリア・デ・モリナとの間に、以下の子女をもうけた。

イサベル(1283年 - 1328年) - アラゴン王ハイメ2世妃、後に離婚。ブルターニュジャン3世と再婚。

フェルナンド4世(1285年 - 1312年) - カスティーリャ王(1295年 - 1312年)

ペドロ(1290年 - 1319年) - アルフォンソ11世の摂政、アラゴン王ハイメ2世の娘マリアと結婚。

フェリペ(1292年 - 1327年)

ベアトリス(1293年 - 1359年) - ポルトガルアフォンソ4世

脚注^ 尾崎、P444 - P446。
^ a b ローマックス、P223。
^ 西川、P155 - P156。
^ 西川、P157 - P158。
^ 西川、P158 - P160。
^ ローマックス、P223 - P224、西川、P160。
^ ローマックス、P224、西川、P160 - P161、P170。

参考文献

D.W.ローマックス著、林邦夫
訳『レコンキスタ 中世スペインの国土回復運動』刀水書房、1996年。

尾崎明夫、ビセント・バイダル訳・解説『征服王ジャウメ1世勲功録 レコンキスタ軍記を読む』京都大学学術出版会、2010年。

西川和子『スペイン レコンキスタ時代の王たち 中世800年の国盗り物語』彩流社、2016年。

関連項目

ベヘール・デ・ラ・フロンテーラ

タラベラ・デ・ラ・レイナ

バルマセダ

デバ










カスティーリャ国王(1284年 - 1295年)


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