1914年、第一次世界大戦が始まり、ロシア帝国がドイツ帝国と交戦状態に入ると、ドイツ語風のサンクトペテルブルクが避けられ、ロシア語風のペトログラード (Петроград)と改められた[2]。これはドイツ語風の「ブルク」を、ロシア語風(厳密には古代教会スラヴ語風)の「グラード」に差し替えたものであり、意味は同じである。
さらにロシア革命によりソビエト連邦が成立すると、1924年よりソ連建国の父ウラジーミル・レーニンの死去により、彼にちなんで「レーニンの街」の意であるレニングラード (Ленинград, リニングラート)と改称され、この名称がソ連崩壊まで半世紀以上用いられた。
しかし、1991年9月6日に、住民投票によってロシア帝国時代の現在の名称に再び戻った(ただし、投票に拘束力はなく地名変更にはソビエト連邦最高会議の承認が必要とされた[2])。ロシア人の間ではピーテル (Питер, ピーチェル) の愛称で呼ばれる[3]。対独感情の良い時期であったこともあり、短期間しか用いられなかったペトログラードの名は飛ばされて、その前のサンクトペテルブルクまで一挙に戻されている。州名は従来どおりレニングラード州となっている。 バルト海東部のフィンランド湾最奥部に位置し、隣国との国境線に近く、フィンランドの首都ヘルシンキ、エストニアの首都タリンとの距離は、それぞれ300km、350kmである[4]。一方、首都のモスクワとは直線距離で600km以上離れている。(東京?函館、東京?広島間の距離に相当) 行政上はモスクワ、セヴァストーポリとともに単独で連邦市を形成しており、これら2都市と同じく都市単独で連邦構成主体となっている。世界の100万都市の中では最も北に位置する。 市街はネヴァ川河口デルタの島々を結ぶ運河網が発達しており、ネヴァ川は運河や河川などにより、白海、ドニエプル川、ヴォルガ川と結ばれているため、この都市はカスピ海やウラル、ヴォルガからの船舶のバルト海への出口となっている。港は冬季となる11月から4月に凍結するが、厳寒期を除き常に砕氷船がこれらの航路を維持している。 ネヴァ川河口域は、古くはバルト海からヴォルガ川、ドニエプル川といった内陸水路を通じて黒海へと向かう「ヴァリャーグからギリシアへの道」と呼ばれた重要な交易ルートに位置し、ルーシの北辺に位置していた。キエフ大公国分裂後の1136年、北方にノヴゴロド公国が建国された。首都ノヴゴロドはネヴァ川水路でバルト海と繋がっており、ハンザ同盟の4大商館のひとつが置かれ、商業の中心地として繁栄した。また、ネヴァ川河口はフィンランドを支配下に置くスウェーデンとの国境地帯ともなっていた。1240年には両国の間にネヴァ河畔の戦いが起こり、この戦いはノヴゴロド公アレクサンドルの活躍によりノヴゴロド公国側が勝利し、その後アレクサンドルは自らの名に「ネヴァ川の勝利者」という意味を持つ「ネフスキー」という名を加え、アレクサンドル・ネフスキーを名乗るようになった。その後はモスクワ公国領となっていたが、1617年、ストルボヴァの和約によりスウェーデンがここを支配下に置いた。ほどなくスウェーデンは三十年戦争を通じて、バルト海南岸に領土を拡大し、バルト海沿岸の交易を独占する大帝国となった(バルト帝国)。 1700年に始まった大北方戦争でスウェーデンの要塞を陥落させ、ネヴァ川河口を占領したピョートル1世は、1703年5月27日(当時ロシアで使われていたユリウス暦では5月13日)にペトロパヴロフスク要塞の建設を開始した。これがサンクトペテルブルクの歴史の始まりとされ、現在では5月27日は建都記念日として市の祝日となっている[5]。当時、この地域はイングリアと呼ばれ、荒れ果てた沼地であったが、ピョートル1世は、内陸のノヴゴロドに代わるロシアの新しい貿易拠点となる都市を夢見ていた。建設は戦争と同時進行であったため労働条件は過酷で、1万人ともいわれる人命が失われたという。建設費用と戦費は借款によって賄い、後に貿易によって生じる利益で返済する計画だったため、経済面においてこの都市にかかる期待は非常に大きかった。1713年、ポルタヴァの戦いに勝利後、この地が首都と定められた。1721年、大北方戦争が終結し、ロシアと同盟国側の勝利となり、戦後のニスタット条約によりフィンランド湾沿岸のスウェーデン領が正式にロシアに編入された。 1725年に皇帝エカチェリーナ1世がサンクトペテルブルクに科学アカデミーを創設した。同年、人口が10万人を超えた[6]。翌年ロシアがウィーン同盟 歴代ロシア皇帝は帝都サンクトペテルブルクの整備を続け、1754年には皇帝が冬の時期を過ごす宮殿として冬宮が完成し、ネフスキー大通りが整備され、冬宮を中心とした放射状の街並みが作られた。1757年には演劇アカデミーが創設された。エカチェリーナ2世の時代の1762年には冬宮の一角に後のエルミタージュ美術館の元となる展示室が開設された。1766年、再び英露通商条約を締結[7]。1768年に貨幣改革をして、翌年1月にロシア初の紙幣であるアシグナツィア
地理
歴史
前史
ロシア帝国時代
1800年、サンクトペテルブルクの人口が22万人に達する[6]。フランス皇帝ナポレオン1世の侵攻による1812年の祖国戦争において第2の都市モスクワが壊滅したがサンクトペテルブルクは戦火には見舞われず、1817年、アシグナト銀行本体と割引事務所が母体となり、国立商業銀行が誕生した[8]。