サルデーニャ王国
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両シチリア王国イタリア王国
フランス第二帝政

サルデーニャ王国(サルデーニャおうこく、サルデーニャ語: Rennu de Sardigna、イタリア語: Regno di Sardegna)は、13世紀から19世紀にかけて存在したヨーロッパの国家である。領土は現在のイタリアフランスにまたがり、サルデーニャ島ピエモンテサヴォワニース伯領(アルプ=マリティーム県)を統治した。その存続期間の大半において、王国の本拠はサルデーニャ島ではなく大陸のピエモンテにあり、首都はトリノであった。

サヴォイア家が支配するこの王国は、19世紀のイタリア統一運動(リソルジメント)において中核となり、近代イタリア王国の前身となった。

本項ではサヴォイア家以前の「サルデーニャ王」についても略述する。
概要

「サルデーニャ王」の称号は中世に登場し、その領土は名目上「サルデーニャ王国」となった。13世紀末以降、サルデーニャはイベリア半島アラゴン王国(のちにスペイン王国)によって事実上の植民地として支配された。

サヴォイア(現在はフランス領のサヴォワ)から興ったサヴォイア家サヴォイア公国)は、1720年にシチリアと交換する形でサルデーニャの領土を獲得し、サルデーニャ王国を称した。サヴォイア家は従来通り大陸を本拠とし、ピエモンテのトリノを首都としたことから、「ピエモンテ王国」とも呼ばれる。ナポレオン戦争期には大陸領土を失陥し、サルデーニャ島のみを支配する国家となって、カリャリに本拠を移した。

1815年ウィーン会議によりジェノヴァ共和国をふくむ旧領を回復。1860年に一応のイタリア統一を果たし、1861年イタリア王国の建国が宣言された。
歴史
前史: 18世紀以前のサルデーニャ
「サルデーニャ王」の称号「サルデーニャ#歴史」および「サルデーニャ君主一覧」も参照

東ローマ帝国の支配が名目化した後、サルデーニャにはカリャリ、トッレス、ガッルーラ、アルボーレアの4つの「裁判区」(giudici)と呼ばれる自治区が形成されるが、これらを治めた「裁判官」(giudice)の中には、神聖ローマ皇帝から「サルデーニャ王」として承認される者もいた。しかし、中世に在地勢力からサルデーニャ全島の実効支配を達成した人物はなかった。11世紀以降、サルデーニャにピサジェノヴァの勢力が侵入し、両市による植民化が進む。

1297年ローマ教皇ボニファティウス8世は、アラゴン国王 ハイメ2世に対して、シチリア王国に関する権利を放棄してアンジュー家に返還するよう迫ったが、その見返りとしてサルデーニャ「王国」をコルシカとともに授封した(サルデーニャ国王 ジャコモ1世)。この返還はその後、事実上無効化されたが、両島の授封については1302年カルタベロッタの和約で追認された。

ハイメ2世は1323年からサルデーニャへの侵攻を開始したが、先住民やジェノヴァ人、ピサ人たちの抵抗に遭い、征服は進まなかった。しかし、その後1世紀近くにわたる抗争のうちに、ジェノヴァやピサの勢力は衰退し、アラゴン=カタルーニャ連合王国による支配が確立していった(コルシカはジェノヴァの勢力下にとどまった)。以後、サルデーニャは名目上アラゴン連合王国の一王国として、実態はカタルーニャ人の植民地として支配され、スペイン王国の成立後もこの状況が続いた。
スペイン継承戦争とサルデーニャ島

1700年にスペイン・ハプスブルク家が断絶すると、スペインにブルボン家の王を送り込んだフランスと、ハプスブルク家の同族であるオーストリアとが争い、ヨーロッパ諸国を巻き込んでスペイン継承戦争1701年 - 1714年)が勃発した。サヴォイア公ヴィットーリオ・アメデーオ2世は、当初フランス側で参戦したが、途中でオーストリア側に転じている。

1713年に結ばれたユトレヒト条約で、サルデーニャ島はスペインからオーストリアに、シチリア島はスペインからサヴォイアに割譲された。ヴィットーリオ・アメデーオ2世はシチリア王1714年 - 1720年)となった。

しかし、スペインは旧領回復を目指してサルデーニャ島とシチリア島を占領し、四カ国同盟戦争1718年 - 1720年)が勃発した。イギリス・フランス・オランダ・オーストリアの四国同盟に対して敗勢に回ったスペインは、1720年にハーグ条約を結んで和平に至った。


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