サラーフッディーン
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翌1183年、アレッポへ攻め寄せたサラーフッディーンはザンギー2世を撤退させてアレッポを征服した[30]。その後もモースルとの抗争は続いたが、1186年に和議を結んでアイユーブ朝の主権を承認させ、エジプト・シリア両地域を緩やかに統合することに成功した[31]アイユーブ朝の版図(1189年)
エルサレム王国との戦い

1174年にボードゥアン4世がエルサレム国王に即位した後も、地中海岸に盤踞する十字軍国家とアイユーブ朝との間には軍事的緊張が継続しており、1177年にはモンジザールの戦いでサラーフッディーンは手痛い敗北を喫している。1180年には両国間に休戦協定が締結されたものの、トランスヨルダン領主であるルノー・ド・シャティヨンメディナ侵攻などの動きを見せて休戦破りを繰り返し、これに激怒したサラーフッディーンは1183年および1184年の2度にわたりルノーの居城であるカラクを包囲したが、攻め落とすことができなかった[32]

1187年1月、ルノーが再度休戦協定を破って周辺のイスラム隊商や集落を略奪すると、サラーフッディーンは同年3月にジハード(聖戦)を宣告し、エルサレム王国への本格的侵攻を開始した。5月にクレッソン泉の戦いテンプル騎士団および聖ヨハネ騎士団を殲滅し、7月にヒッティーンの戦いで十字軍の主力部隊を壊滅させ、エルサレム国王ギー・ド・リュジニャンを捕虜にするとともにルノーを斬首している。この戦勝で十字軍の戦力は大幅に弱体化し、アイユーブ朝軍はパレスチナ諸都市を次々と占領した後、エルサレムを同年10月に奪還(英語版)することに成功した[33]。このとき、サラーフッディーンは身代金を払えない捕虜まで放免するという寛大な処置を示している。
第3回十字軍との戦いサラーフッディーン廟。世界最古のモスクといわれるウマイヤド・モスクに隣接する。

エルサレム占領後、アイユーブ朝軍は地中海岸各都市の占領を引き続き進めたものの、降伏した各都市の敗残兵が十字軍側に残されているティールへと集結し、解放されたギー王に率いられたエルサレム軍は1189年にアッコンへ向かい、アッコン包囲戦を開始した。サラーフッディーンはこれを迎え撃ったものの、戦線は2年間膠着したままだった[34]

一方、サラーフッディーンによる聖地陥落のニュースは、聖地への「関心の薄れていた西欧にとって青天の霹靂」で、神聖ローマ皇帝 フリードリヒ1世 バルバロッサフランス王 フィリップ2世イングランド王リチャード1世獅子心王率いる、十字軍史上最大規模の第3回十字軍の遠征をもたらした[35]

フランス軍とイギリス軍による第3回十字軍は1191年にアッコンに到着して7月にこれを陥落させ、フィリップ2世は同月帰国の途につくものの、リチャード1世はさらに戦闘を続行した。サラーフッディーンはアルスフ、ジャッファの戦いでリチャードに敗北を喫するが、エルサレムへの侵攻は許さず、双方疲弊した結果、リチャードが裏で進めていた和平工作にのり1192年、十字軍と休戦条約を締結した[36]。この結果海岸沿いに十字軍勢力は残存し、またエルサレムへのキリスト教徒の巡礼者を認めることに合意した[37]

翌1193年、サラーフッディーンはダマスカスにて病死した[38]。彼の死後、アイユーブ朝の領地は長子アル=アフダルをはじめとする彼の一族によって分割統治されることとなった[39]
サラーフッディーンの施政とその人となり

若年時から文武共に誉れが高く、出世して職責が高まるとともに贅沢を辞めるなど、機を読むことに長けていた。当時のイスラーム君主の常として少年を愛したことでも知られている。

かつてエルサレムを占領した第1回十字軍は捕虜を皆殺しにし、また第3回十字軍を指揮したリチャード1世も身代金の未払いを理由に同様の虐殺を行った。しかし、サラーフッディーンは敵の捕虜を身代金の有無に関わらず全員助けている[注釈 2][注釈 3]。彼は軍事の天才であるが、このような寛大な一面もあって、敵味方を問わずにその人格は愛され、現在まで英雄としてその名を残しているのである。捕虜を助けた事に関して、次のような逸話がある。サラーフッディーンが身代金を支払わない捕虜の扱いに困っていると、彼の弟(後に4代目スルタンとなったアル=アーディル)が捕虜を少し自分に分け与えるよう進言した。サラーフッディーンは訳を訊ねるが弟は答えず、彼の言う通りに捕虜を与えてやった。すると、弟は自分の物だからと言って全て解放してやり、こうするのが良いのだと兄に言った。喜ぶ兵士たちの姿を見たサラーフッディーンは捕虜を殺さないことを決心したという。また、病床にあるリチャード1世に見舞いの品を贈る等、敵に対しても懐の深さを見せている。

その寛容さは名声を高めたが、しばしば不利益となっても現れた。行軍の際に、途中で立ち寄った村の村人たちに軍事費の一部を分け与えていたため、彼の兵士の多くは軍事費を自腹で用意しなければならない程であったという。私財も常にそのように用いたため、サラーフッディーンの遺産は自身の葬儀代にもならなかった。また、ハッティンの戦いでティールに追い込んだ守将バリアンに対し、当初は武装解除を条件に脱出を許可していたが、書簡でエルサレムの指揮権を請われるとこれを認めて入城させ、エルサレム攻略戦での苦戦を招いている。

上記のような寛容な逸話が多いが、無条件に甘い人物というわけではなく、中でも度々休戦協定を破って隊商を襲ったルノー・ド・シャティヨンに対する怒りは大きかった。


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