ヌールッディーンはこれらサラーフッディーンの行動を離叛・敵対行為として赦さずエジプトへ親征を自ら企図していたようだが、その矢先の1174年5月にダマスクスで病没した。ヌールッディーンが没すると、その幼い息子サーリフが即位したが、ヌールッディーンの甥で女婿でもあるモスルのアタベク・サイフッディーン・ガーズィー2世
がアレッポ近傍まで軍事侵出して来た。さらにエルサレム王国などの十字軍勢力もこの機会を逃さず積極的にダマスクス周辺へ侵攻し、シリア周辺はにわかに情勢が流動化した。7月末にサーリフがアレッポへ入城し、サイフッディーン・ガーズィーも慎重策をとってアレッポ征服を断念してシリアから撤退した。ところがアレッポのザンギー朝アミールたちは庇護を受けていたサーリフを見限ってサイフッディーン・ガーズィーと協定を結びダマスクスに対抗しようと画策したようである。これに焦ったダマスクス宮廷は、サーリフへの擁護を表明していたサラーフッディーンに援軍を要請して来た。かくしてサラーフッディーンはこの機会を得てシリアへの親征、同年10月末にはダマスクスに無血入城を果たした。運良くアモーリー王が急死してボードゥアン4世が即位したため、エルサレム王国軍も撤退した。サーリフへの臣従表明とダマスクス宮廷とそのアミールたちとの和議および説得を試み、さらにこの地域でのイクターの再分配を行っている[27]。その後、アレッポに撤退したサーリフやマスヤーフのイスマーイール派との抗争があったものの1176年に講和が成立し[28]、エジプトに加えダマスクス周辺のシリア南部を制圧することが出来た。同年、ダマスクスでヌールッディーンの寡婦であるイスマトゥッディーン・アーミナと結婚したのち数年ぶりにエジプトへと帰還し、検地やカイロ市壁および城塞の建設を行って内政に専念した。また、1176年にはシーア派色の払拭を目的としてダール・アル=イルム(知識の家)を解体してその蔵書を売り払っている[29]。1181年にアレッポのサーリフが死去すると同族であるモースルのマスウード王がアレッポに入ったが、シンジャールにいたイマードゥッディーン・ザンギー2世の要求を受けてアレッポを譲り渡し、自らはモースルへと撤退した。この動きを警戒したサラーフッディーンは1182年にシリアから北イラクへと入りモースルを囲んだが落とすことができなかった。翌1183年、アレッポへ攻め寄せたサラーフッディーンはザンギー2世を撤退させてアレッポを征服した[30]。その後もモースルとの抗争は続いたが、1186年に和議を結んでアイユーブ朝の主権を承認させ、エジプト・シリア両地域を緩やかに統合することに成功した[31]。アイユーブ朝の版図(1189年) 1174年にボードゥアン4世がエルサレム国王に即位した後も、地中海岸に盤踞する十字軍国家とアイユーブ朝との間には軍事的緊張が継続しており、1177年にはモンジザールの戦いでサラーフッディーンは手痛い敗北を喫している。1180年には両国間に休戦協定が締結されたものの、トランスヨルダン領主であるルノー・ド・シャティヨンはメディナ侵攻などの動きを見せて休戦破りを繰り返し、これに激怒したサラーフッディーンは1183年および1184年の2度にわたりルノーの居城であるカラクを包囲したが、攻め落とすことができなかった[32]。 1187年1月、ルノーが再度休戦協定を破って周辺のイスラム隊商や集落を略奪すると、サラーフッディーンは同年3月にジハード(聖戦)を宣告し、エルサレム王国への本格的侵攻を開始した。5月にクレッソン泉の戦いでテンプル騎士団および聖ヨハネ騎士団を殲滅し、7月にヒッティーンの戦いで十字軍の主力部隊を壊滅させ、エルサレム国王ギー・ド・リュジニャンを捕虜にするとともにルノーを斬首している。この戦勝で十字軍の戦力は大幅に弱体化し、アイユーブ朝軍はパレスチナ諸都市を次々と占領した後、エルサレムを同年10月に奪還
エルサレム王国との戦い
第3回十字軍との戦いサラーフッディーン廟。世界最古のモスクといわれるウマイヤド・モスクに隣接する。
エルサレム占領後、アイユーブ朝軍は地中海岸各都市の占領を引き続き進めたものの、降伏した各都市の敗残兵が十字軍側に残されているティールへと集結し、解放されたギー王に率いられたエルサレム軍は1189年にアッコンへ向かい、アッコン包囲戦を開始した。サラーフッディーンはこれを迎え撃ったものの、戦線は2年間膠着したままだった[34]。
一方、サラーフッディーンによる聖地陥落のニュースは、聖地への「関心の薄れていた西欧にとって青天の霹靂」で、神聖ローマ皇帝 フリードリヒ1世 バルバロッサ・フランス王 フィリップ2世・イングランド王リチャード1世獅子心王率いる、十字軍史上最大規模の第3回十字軍の遠征をもたらした[35]。