事実上、大国エジプトを完全に支配下においたサラーフッディーンであったが、主君ヌールッディーンから領土的野心を疑われ、この頃から両者の関係は急速に悪化しはじめたようである。ヌールッディーンは再三ダマスクスへ帰還するよう勧告を行っているが、サラーフッディーンは理由をつけてこれを幾度も固辞し続けついに応じなかった[23]。この時期にサラーフッディーンはファーティマ朝時代のシーア派色を払拭すべく、カーディーをスンニ派へと入れ替え、またアッバース朝カリフとヌールッディーンの名を刻んだ貨幣を鋳造しフトバを唱えさせるなどして、スンナ派政権としてヌールッディーンへの帰順を重ねて表明した[24]。1171年9月15日にはカリフ・アーディドが世継ぎを儲けぬまま病没し、これによってファーティマ朝は完全に滅亡した[25]。またその一方で1174年2月兄のトゥーラーン・シャー(英語版)をイエメンへ派遣してこれを征服させている。これは関係が悪化したザンギー家との開戦を予期し、エジプトを逐われた場合のアイユーブ家の避難所とする目的で征服したのではないかと考えられている。これ以降ラスール朝が勃興するまで、イエメンはアイユーブ朝の領土となる[26]。 ヌールッディーンはこれらサラーフッディーンの行動を離叛・敵対行為として赦さずエジプトへ親征を自ら企図していたようだが、その矢先の1174年5月にダマスクスで病没した。ヌールッディーンが没すると、その幼い息子サーリフが即位したが、ヌールッディーンの甥で女婿でもあるモスルのアタベク・サイフッディーン・ガーズィー2世
シリア獲得
1181年にアレッポのサーリフが死去すると同族であるモースルのマスウード王がアレッポに入ったが、シンジャールにいたイマードゥッディーン・ザンギー2世の要求を受けてアレッポを譲り渡し、自らはモースルへと撤退した。この動きを警戒したサラーフッディーンは1182年にシリアから北イラクへと入りモースルを囲んだが落とすことができなかった。翌1183年、アレッポへ攻め寄せたサラーフッディーンはザンギー2世を撤退させてアレッポを征服した[30]。その後もモースルとの抗争は続いたが、1186年に和議を結んでアイユーブ朝の主権を承認させ、エジプト・シリア両地域を緩やかに統合することに成功した[31]。アイユーブ朝の版図(1189年) 1174年にボードゥアン4世がエルサレム国王に即位した後も、地中海岸に盤踞する十字軍国家とアイユーブ朝との間には軍事的緊張が継続しており、1177年にはモンジザールの戦いでサラーフッディーンは手痛い敗北を喫している。1180年には両国間に休戦協定が締結されたものの、トランスヨルダン領主であるルノー・ド・シャティヨンはメディナ侵攻などの動きを見せて休戦破りを繰り返し、これに激怒したサラーフッディーンは1183年および1184年の2度にわたりルノーの居城であるカラクを包囲したが、攻め落とすことができなかった[32]。 1187年1月、ルノーが再度休戦協定を破って周辺のイスラム隊商や集落を略奪すると、サラーフッディーンは同年3月にジハード(聖戦)を宣告し、エルサレム王国への本格的侵攻を開始した。5月にクレッソン泉の戦いでテンプル騎士団および聖ヨハネ騎士団を殲滅し、7月にヒッティーンの戦いで十字軍の主力部隊を壊滅させ、エルサレム国王ギー・ド・リュジニャンを捕虜にするとともにルノーを斬首している。この戦勝で十字軍の戦力は大幅に弱体化し、アイユーブ朝軍はパレスチナ諸都市を次々と占領した後、エルサレムを同年10月に奪還
エルサレム王国との戦い
第3回十字軍との戦いサラーフッディーン廟。世界最古のモスクといわれるウマイヤド・モスクに隣接する。