シール・クーフはシリアに帰還すると雪辱を果たすべくただちに再度の遠征の準備を始め、ヌールッディーンもこれに協力して親衛軍の一部を割いて1万2千騎の遠征軍を組織した。(ただしこの数字はアイユーブ朝時代のシリア軍団のイクターの受益資料の規模からすると多少の誇張が含まれていると思われる)
1167年初めにシール・クーフ率いるシリア勢の第二回エジプト派遣軍がダマスクスを出発。シャーワルはこの報を聞くとただちにアモーリー王に再び援軍を要請した。シリア軍とエルサレム王国軍はほぼ同時にエジプトに到着したようで、エジプト軍とエルサレム王国軍は連合してシリア軍を攻撃した。この戦いは上エジプトのバーバインにて行われ、激闘の末シール・クーフ麾下のシリア軍が勝利した。
この戦いの後シリア軍への支持を表明していたナイルデルタ西部の主要都市アレクサンドリアへ駐留した。シール・クーフが上エジプトへの偵察行に出ていた間隙を突いて、エジプト・エルサレム王国連合軍がアレクサンドリアを包囲攻撃した。サラーフッディーンはアレクサンドリアの守備を任されていてこの攻撃に対して三ヶ月間耐え切り、連合軍側と交渉して外国軍勢はエジプトから撤退するとの協定を結ばせることに成功した。こうして第二回エジプト遠征も何らの成果を挙げられずにシリア軍はダマスクスまで撤退することとなったが、このアレクサンドリア包囲戦での活躍が、サラーフッディーンの最初の歴史的軍功となった。 1168年にアモーリー率いるエルサレム王国軍が再度エジプト侵攻を行ったため、ファーティマ朝カリフのアーディドがヌールッディーンに救援を要請した。これを受けシール・クーフは3度目のエジプト遠征を行い、サラーフッディーンも帯同した。エルサレム王国軍のカイロ接近を知った宰相シャーワルはカイロに隣接する経済都市フスタートを焼き払い、これによってエルサレム王国軍は撤退した。敵のいなくなったシール・クーフ軍は1169年1月8日にカイロへの入城を果たし、エジプト遠征は3度目にして成功した[17]。 カイロ入城後、シール・クーフは宰相に就任して事実上ファーティマ朝の実権を握ったが、約2ヶ月後の1169年3月23日に大食漢であったことが原因で死去した。シール・クーフ死後、サラーフッディーンはその軍権を引継ぎ、さらにファーティマ朝の宰相にも就任した。これが事実上のアイユーブ朝の創設とみなされている[18]。宰相に就任するとサラーフッディーンはまずシリア軍を再編して直属軍団を編成し、旧ファーティマ朝軍から封土を没収してシリア軍にイクターとして供与することで軍事・権力基盤を確立した[19]。このことは旧ファーティマ朝軍、特にその主力をなしていた黒人奴隷兵を刺激し、宮廷を統括していた黒人宦官であるムウタミン・アル=ヒラーファが反乱を企てたものの、実行前に発覚して殺害された。これによって黒人奴隷兵は暴発し武力蜂起に踏み切ったが、サラーフッディーンはカイロ市街地での8月22日のバイナル・カスラインの戦い
第三回エジプト遠征
アイユーブ朝の創設ヒッティーンの戦いの後のサラーフッディーン
事実上、大国エジプトを完全に支配下においたサラーフッディーンであったが、主君ヌールッディーンから領土的野心を疑われ、この頃から両者の関係は急速に悪化しはじめたようである。ヌールッディーンは再三ダマスクスへ帰還するよう勧告を行っているが、サラーフッディーンは理由をつけてこれを幾度も固辞し続けついに応じなかった[23]。この時期にサラーフッディーンはファーティマ朝時代のシーア派色を払拭すべく、カーディーをスンニ派へと入れ替え、またアッバース朝カリフとヌールッディーンの名を刻んだ貨幣を鋳造しフトバを唱えさせるなどして、スンナ派政権としてヌールッディーンへの帰順を重ねて表明した[24]。1171年9月15日にはカリフ・アーディドが世継ぎを儲けぬまま病没し、これによってファーティマ朝は完全に滅亡した[25]。またその一方で1174年2月兄のトゥーラーン・シャー(英語版)をイエメンへ派遣してこれを征服させている。これは関係が悪化したザンギー家との開戦を予期し、エジプトを逐われた場合のアイユーブ家の避難所とする目的で征服したのではないかと考えられている。これ以降ラスール朝が勃興するまで、イエメンはアイユーブ朝の領土となる[26]。 ヌールッディーンはこれらサラーフッディーンの行動を離叛・敵対行為として赦さずエジプトへ親征を自ら企図していたようだが、その矢先の1174年5月にダマスクスで病没した。ヌールッディーンが没すると、その幼い息子サーリフが即位したが、ヌールッディーンの甥で女婿でもあるモスルのアタベク・サイフッディーン・ガーズィー2世
シリア獲得