サラディン
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数日で財務長官(サーヒブ・ディーワーン)のアブー・サーリムと確執が生じ早々にこれを辞職したが、ヌールッディーンはサラーフッディーンに味方してアブー・サーリムを叱責するなど、主君ヌールッディーンや叔父シール・クーフからの愛顧は大変に篤かったようである[14]。以後もヌールッディーンの側近として青年期を通じ常に主君の戦闘や行政に近侍していた。

青少年時代のサラーフッディーンは主君や叔父に扈従・同伴して各地を転戦したが、余暇には主君や同僚たちとポロ(kura)や学問に興じ、特にポロには優れた技量を発揮したと言う[14]。また。若い頃から智勇に長け、特に1164年以降のエジプト遠征では、叔父シール・クーフが「サラーフッディーンに相談したり、彼の意見を聞いたりしない限り、何事も裁決しなかった」とされるほど重用された[15]
エジプト遠征とその獲得

1160年代に行われたヌールッディーンのエジプト遠征は都合3回行われている。シール・クーフはじめアイユーブ家所縁の武将が何人も参加しており、サラーフッディーンもこれらの遠征に参戦している。
第一回エジプト遠征

1163年9月にエルサレム王アモーリー1世はスエズを越境しファーティマ朝治下の下エジプトに侵攻した。しかしちょうどナイルの増水の季節とぶつかったためファーティマ朝側は堤防を切ってナイルデルタ東部のビルバイスに足留めさせ、十字軍は侵攻を断念して撤退した。この1163年にファーティマ朝内部の政争に敗れ宰相職を逐われた上エジプトのナーイブ(君主の地方代理人=総督職)であったシャーワル(Sh?'war)なる人物が、ヌールッディーンのダマスクス宮廷を訪れ援軍を求めてきた。ヌールッディーンはこれをエジプト介入の好機と捉え、シール・クーフにザンギー朝のシリア軍からエジプト派遣軍の編成を命じた。これがザンギー朝のヌールッディーンによる第一回のエジプト遠征となった。

この時サラーフッディーンは叔父の幕僚として参画しエジプトへ同行した。サラーフッディーンは当初エジプト遠征に参加することを酷く嫌ったようで、シール・クーフの再三の説得によって同行を承諾したと伝えられている。

1164年5月にシール・クーフ率いる派遣軍はエジプトに到着。シャーワルは宰相職に復権した。しかし派遣軍によるエジプトの占領を恐れた彼はエジプトからの退去をシール・クーフらに要求し、さらに秘かにアモーリー王に援軍を求めた。派遣軍はビルバイスで足留めされ、市街近郊に迫ったエルサレム王国軍とファーティマ朝軍に包囲されるに及んで身代金の支払いと引換えにエジプトから退去することとなった。かくして最初のエジプト遠征は完全な失敗に終わった。はかばかしい成果がなく軍が撤退したためサラーフッディーンの活躍は伝えられていない[16]
第二回エジプト遠征

シール・クーフはシリアに帰還すると雪辱を果たすべくただちに再度の遠征の準備を始め、ヌールッディーンもこれに協力して親衛軍の一部を割いて1万2千騎の遠征軍を組織した。(ただしこの数字はアイユーブ朝時代のシリア軍団のイクターの受益資料の規模からすると多少の誇張が含まれていると思われる)

1167年初めにシール・クーフ率いるシリア勢の第二回エジプト派遣軍がダマスクスを出発。シャーワルはこの報を聞くとただちにアモーリー王に再び援軍を要請した。シリア軍とエルサレム王国軍はほぼ同時にエジプトに到着したようで、エジプト軍とエルサレム王国軍は連合してシリア軍を攻撃した。この戦いは上エジプトのバーバインにて行われ、激闘の末シール・クーフ麾下のシリア軍が勝利した。

この戦いの後シリア軍への支持を表明していたナイルデルタ西部の主要都市アレクサンドリアへ駐留した。シール・クーフが上エジプトへの偵察行に出ていた間隙を突いて、エジプト・エルサレム王国連合軍がアレクサンドリアを包囲攻撃した。サラーフッディーンはアレクサンドリアの守備を任されていてこの攻撃に対して三ヶ月間耐え切り、連合軍側と交渉して外国軍勢はエジプトから撤退するとの協定を結ばせることに成功した。こうして第二回エジプト遠征も何らの成果を挙げられずにシリア軍はダマスクスまで撤退することとなったが、このアレクサンドリア包囲戦での活躍が、サラーフッディーンの最初の歴史的軍功となった。
第三回エジプト遠征

1168年にアモーリー率いるエルサレム王国軍が再度エジプト侵攻を行ったため、ファーティマ朝カリフのアーディドがヌールッディーンに救援を要請した。これを受けシール・クーフは3度目のエジプト遠征を行い、サラーフッディーンも帯同した。エルサレム王国軍のカイロ接近を知った宰相シャーワルはカイロに隣接する経済都市フスタートを焼き払い、これによってエルサレム王国軍は撤退した。敵のいなくなったシール・クーフ軍は1169年1月8日にカイロへの入城を果たし、エジプト遠征は3度目にして成功した[17]
アイユーブ朝の創設ヒッティーンの戦いの後のサラーフッディーン

カイロ入城後、シール・クーフは宰相に就任して事実上ファーティマ朝の実権を握ったが、約2ヶ月後の1169年3月23日に大食漢であったことが原因で死去した。シール・クーフ死後、サラーフッディーンはその軍権を引継ぎ、さらにファーティマ朝の宰相にも就任した。これが事実上のアイユーブ朝の創設とみなされている[18]。宰相に就任するとサラーフッディーンはまずシリア軍を再編して直属軍団を編成し、旧ファーティマ朝軍から封土を没収してシリア軍にイクターとして供与することで軍事・権力基盤を確立した[19]。このことは旧ファーティマ朝軍、特にその主力をなしていた黒人奴隷兵を刺激し、宮廷を統括していた黒人宦官であるムウタミン・アル=ヒラーファが反乱を企てたものの、実行前に発覚して殺害された。これによって黒人奴隷兵は暴発し武力蜂起に踏み切ったが、サラーフッディーンはカイロ市街地での8月22日のバイナル・カスラインの戦い(英語版)によって黒人奴隷勢力を殲滅し、エジプトの実権を完全に握った[20]。またこの戦い以後、エジプト軍から黒人奴隷兵は完全に排除され[21]、変わってマムルークと呼ばれる白人奴隷兵がアイユーブ朝軍で重要な地位を占めるようになった[22]

事実上、大国エジプトを完全に支配下においたサラーフッディーンであったが、主君ヌールッディーンから領土的野心を疑われ、この頃から両者の関係は急速に悪化しはじめたようである。ヌールッディーンは再三ダマスクスへ帰還するよう勧告を行っているが、サラーフッディーンは理由をつけてこれを幾度も固辞し続けついに応じなかった[23]。この時期にサラーフッディーンはファーティマ朝時代のシーア派色を払拭すべく、カーディーをスンニ派へと入れ替え、またアッバース朝カリフとヌールッディーンの名を刻んだ貨幣を鋳造しフトバを唱えさせるなどして、スンナ派政権としてヌールッディーンへの帰順を重ねて表明した[24]1171年9月15日にはカリフ・アーディドが世継ぎを儲けぬまま病没し、これによってファーティマ朝は完全に滅亡した[25]


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