サラエヴォ
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アリ=パシャ・モスクは、ハディム・アリ=パシャ(Hadim Ali-pasha)の遺言に基づき、アリの遺産によって1560年から1561年にかけて建造されたモスクである[36]。アリは自らの遺産を使って、自分の墓の隣にモスクを建てることを望んでいた。ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争では大きく損害を受けたものの、終戦後は段階的に修復作業が進められている。

カトリック教会のイエスの聖心大聖堂

バシュチャルシヤの近くにあるイナトクチャ

ツェンタルにあるアリ・パシャ・モスク

人口動態

著名な個人については「サラエヴォ出身の人物」節を参照のこと。ボスニア民族衣装を身に着けた、19世紀末のサラエヴォの若い女性/袋のように膨らんだズボン "dimije" を穿いている。1890年頃と1900年頃の間にスタジオ撮影された観光カタログ用写真。モノクロ写真のネガフィルムから版を起こして多色刷で彩色したフォトクローム(英語版)の印刷物。

ボスニア・ヘルツェゴビナにおける公式な国勢調査1991年以降、2008年にいたるまで行われていない。1991年の国勢調査では、サラエヴォ周辺の10の自治体の人口は527,049人を数えた。サラエヴォの都市圏の人口は416,497人であった[39]。サラエヴォを含むボスニア・ヘルツェゴビナでは、戦争によって大規模に人口が流動し、その多くが2008年の時点でいまだに帰還できていない。

その後2008年にいたるまで、サラエヴォの人口は正確には把握されておらず、国際連合統計局(United Nations Statistics Division)や、ボスニア・ヘルツェゴビナ連邦・連邦統計局、そして非営利団体による推計があるのみである。

2011年の時点で、サラエヴォの4自治体の人口は合計で311,161人と推計され、この4自治体を含むサラエヴォ県の人口は438,757人と推計されている[1]1,276.9平方キロメートルの面積を持つ、サラエヴォの人口密度は2,202.9人/平方キロメートルであるとみられる。サラエヴォの4自治体のなかで最も人口密度が高いのはノヴォ・サラエヴォであり、その人口密度は7524人/平方キロメートルである。一方、サラエヴォの4自治体のなかで最も人口密度が低いのはスタリ・グラードであり、2742人/平方キロメートルである[40]

紛争によって大規模に街の民族的・宗教的な特徴は塗り替えられた。サラエヴォは何世紀にもわたって多文化都市であり[41]、「ヨーロッパのエルサレム」と呼ばれることもあった[42]。紛争直前の1991年の時点で、ボシュニャク人はサラエヴォの人口の49%を占め、次いで、主に正教会に属するセルビア人が34 %、主にカトリック教会に属するクロアチア人が7%であった。
通信とメディア

ボスニア・ヘルツェゴビナの首都として、サラエヴォはボスニア・ヘルツェゴビナの多くのニュース・メディアが拠点としている。通信と放送の設備のほとんどは紛争によって破壊されたものの、終戦後にボスニア・ヘルツェゴビナ上級代表局による支援のもとで復興された[43]。たとえば、サラエヴォでは、インターネットは1995年に初めて使用可能となった[44]

オスロボジェニェ(Oslobo?enje、「解放」)は1943年に創設され、紛争後のサラエヴォで運営期間が最も長く、紛争を生き延びることのできた唯一の新聞であった。しかし、発行部数では1995年創刊のドネヴニ・アヴァズ(Dnevni Avaz、日刊「声」)や、ユタルニェ・ノヴィネ(Jutarnje Novine、「朝のニュース」)に追い越された[45]。その他に地元で定期的に発行される新聞としては、クロアチア語の新聞フルヴァツカ・リイェチ(Hrvatska rije?)や、ボスニア語のスタルト(Start)、週刊誌のスロボダナ・ボスナ(Slobodna Bosna、「ボスニア解放」)、BHダニ(BH Dani「BHの日々」)などがある。ノヴィ・プラメン(Novi Plamen)は月刊誌であり、左翼思想を代表している。

ボスニア・ヘルツェゴビナ公共放送サービスは、サラエヴォの公共放送局であり、ボスニア・ヘルツェゴビナの3つある公共放送のうちのひとつである。その他にサラエヴォに本拠地を置く放送局は、NRTV “Studio 99”、NTV Hayat、Open Broadcast Network、TV Kantona Sarajevo、Televizija Alfaがある。このほかに多くの小規模な独立ラジオ局があり、Radio M、Radio Stari Grad、Studentski eFM Radio[46]、Radio 202、RSGなどがある。Radio Free Europeや、その他の欧米各国の放送も展開されている。
交通輸送サラエヴォはヨーロッパで初の終日(朝から夜まで)運行している路面電車が導入された街である。路面電車はそのあとも時代に合わせて改良が進められている。

サラエヴォは山に囲まれた渓谷に位置しており、街は小さくまとまっている。狭い路地と駐車場の不足によって、街への自動車の進入は制限され、歩行者や自転車にとっては恵まれた環境になっている。街の2つの主要な通りはヨシップ・ブロズ・チトーの名を冠するティトー通りと、東西を結ぶズマイ・オド・ボスネ(ボスニアのドラゴン、Husein Grada??evi?)・ハイウェーがある。欧州高速道路のCorridor 5Cは、サラエヴォの街を北はブダペスト、南はプロチェ(Plo?e)へと結んでいる[47]

路面電車1885年から運行しており、サラエヴォで最古の公共交通機関である[48]。サラエヴォには7本の路面電車の路線と、5本のトロリーバスの路線があり、また多くのバス路線がある。サラエヴォで主要な鉄道の駅は、街の中北部に位置している。この鉄道駅からは、西にむけて多くの場所に路線が枝分かれしており、街の工業地帯などとも結ばれている。サラエヴォは21世紀にはいり、産業の刷新が進んでおり、多くの高速道路や通りの改修、路面電車の現代化、新しい橋や道路の建設が進められている。

サラエヴォ国際空港、あるいはブトミル空港(Butmir)はサラエヴォの街から南西に数キロメートルのところに位置している。紛争中、空港は国際連合と人道的支援のために使用された。1996年デイトン合意が結ばれてからは、空港は民間による使用を受け入れている。2006年、534,000人の旅客がサラエヴォ空港を利用した。その10年前の1996年、旅客の利用はわずかに25,000人であった[49]
文化ボスニア・ヘルツェゴビナ国立博物館

サラエヴォは多くの異なる宗教が共存してきており、街の文化を多様なものとしている。ボスニアのムスリム、正教徒、カトリック教徒、ユダヤ人は互いに同じ街に住みながら、それぞれ独自のアイデンティティを維持し続けてきた。しかし、紛争後はムスリムの人口比率が高まった。紛争後の年月が経過するにつれ、すこしずつ街を去った人々の帰還も進んでいる。また、東アジアからの移民も増加している。

サラエヴォには多くの博物館がある。その中には、サラエヴォ博物館、アルス・アエヴィ現代美術館(Ars Aevi)、ボスニア・ヘルツェゴビナ博物館(en、1988年に開設され、サラエヴォ・ハッガーダー(Sarajevo Haggadah)を所有)、ボスニア・ヘルツェゴビナ歴史博物館、ボスニア・ヘルツェゴビナ文学・芸術博物館などがある。

サラエヴォには、1919年に設立されたボスニア・ヘルツェゴビナ国立劇場もある。また、サラエヴォ青年劇場もある。その他の文化的施設としては、サラエヴォ文化センター、サラエヴォ市図書館、ボスニア・ヘルツェゴビナ・アート・ギャラリーなどがある。ボシュニャク協会(Bosniak Institute)は、ボシュニャク人の歴史に焦点をあてた私有の図書館と美術コレクションである。

紛争に関連する破壊によって[50]、そして復興開発のなかで、複数の施設や文化的・宗教的象徴が失われた。その中には、ガジ・フスレヴ=ベグ図書館や、国立図書館、サラエヴォ・オリエンタル協会、1984年の冬季オリンピックに関する博物館などがあった。その後、各層の政府によって文化財保護の法律と機関が設けられた。サラエヴォで文化的遺産の保護を受け持つ機関となっているのは、ボスニア・ヘルツェゴビナ文化的・歴史的・自然遺産保護協会、およびボスニア・ヘルツェゴビナ国立記念物保存委員会である。

歴史的に、サラエヴォはオスマン帝国時代、複数のボスニアの詩人や思想家の故地となった。ノーベル賞受賞者のウラジミール・プレローグはこの街の出身である。また、アカデミー賞受賞のダニス・タノヴィッチもサラエヴォ出身である。ノーベル賞受賞のイヴォ・アンドリッチはその人生の多くをサラエヴォで過ごした。

サラエヴォ映画祭は1995年に始まり、バルカンで随一の映画祭となった[51][52]。有名なサラエヴォ・ジャズ・フェスティバル(Sarajevo Jazz Festival)や、何週間にもわたって続く地元の文化・音楽・舞踊のショーケース「バシュャルシヤの夜」(Ba??ar?ija Nights)もある[51][53]


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