サラエヴォ
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ここでは、トルコのブルサから持ち込まれた絹製品が売られていた[36]。また、1891年に建てられ、サラエヴォの代表的なシンボルとなっているセビリ(Sebilj)は独特の形状をした水汲み場で、バシュチャルシヤの中央に位置している。その名前は、アラビア語で「道」を意味する「Sebil」に由来している[36]
ラテン橋ラテン橋。サラエヴォ暗殺事件の現場。

ラテン橋は、オーストリア=ハンガリー帝国の帝位継承者フランツ・フェルディナント大公夫妻が、ガヴリロ・プリンツィプに殺害された(そのため一時プリンツィプ橋と呼ばれた)、サラエヴォ事件の現場となった橋である。かつて木造だった橋は水害によって破壊され、1798年に再建された[36]1914年、この橋の北で、大公夫妻が暗殺され、第一次世界大戦のきっかけとなった。橋はユーゴスラビアの愛国主義を記念し、プリンツィプ橋と改称されたが、ユーゴスラビア崩壊後にその呼称はかつてのラテン橋に戻された。
セルビア正教会の大聖堂セルビア正教会生神女誕生大聖堂

サラエヴォのセルビア正教会大聖堂は、正式名称を「生神女誕生大聖堂」と言い、生神女聖母マリア)の誕生を記念する大聖堂である。サラエヴォの正教徒のために1863年から1868年にかけて建造された[36]。聖堂は3つのバシリカと、十字架を備えた5つのドームを有している。
カトリック教会の大聖堂

サラエヴォのカトリック教会の大聖堂は、正式名称を「イエスの聖心大聖堂」といい、ボスニア・ヘルツェゴビナで最大のカトリックの大聖堂であり、イエス・キリスト聖心を記念するものである。1884年から1889年にかけて建造された、ゴシック風の建築である。その入り口の上の窓のデザインは、サラエヴォ県の県旗や県象に描かれ、またロマネスク風の2本の塔はサラエヴォの市旗や市章に描かれている。
イナト・クチャ

オーストリア=ハンガリー帝国がサラエヴォを含むボスニア・ヘルツェゴビナを支配していた時代の1914年、帝国はサラエヴォの旧市街に市役所と図書館のための土地を求めた[38]。その予定地には2つのハマムとともに1つの家があり、その所有者に売却を求めたものの、所有者はそれを拒み続けた[36][38]。帝国当局が所有者を脅迫するに至り、ようやくその所有者はその土地を立ち退き、当局への遺恨の意思を示すため、家を解体して一片一片移動させ、ミリャツカ川の対岸に家を再建した[38]。この家は、「遺恨の家」を意味する「イナト・クチャ」(Inat ku?a)の名でレストランとして営業されている[38]
アリ=パシャ・モスク

アリ=パシャ・モスクは、ハディム・アリ=パシャ(Hadim Ali-pasha)の遺言に基づき、アリの遺産によって1560年から1561年にかけて建造されたモスクである[36]。アリは自らの遺産を使って、自分の墓の隣にモスクを建てることを望んでいた。ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争では大きく損害を受けたものの、終戦後は段階的に修復作業が進められている。

カトリック教会のイエスの聖心大聖堂

バシュチャルシヤの近くにあるイナトクチャ

ツェンタルにあるアリ・パシャ・モスク

人口動態

著名な個人については「サラエヴォ出身の人物」節を参照のこと。ボスニア民族衣装を身に着けた、19世紀末のサラエヴォの若い女性/袋のように膨らんだズボン "dimije" を穿いている。1890年頃と1900年頃の間にスタジオ撮影された観光カタログ用写真。モノクロ写真のネガフィルムから版を起こして多色刷で彩色したフォトクローム(英語版)の印刷物。

ボスニア・ヘルツェゴビナにおける公式な国勢調査1991年以降、2008年にいたるまで行われていない。1991年の国勢調査では、サラエヴォ周辺の10の自治体の人口は527,049人を数えた。サラエヴォの都市圏の人口は416,497人であった[39]。サラエヴォを含むボスニア・ヘルツェゴビナでは、戦争によって大規模に人口が流動し、その多くが2008年の時点でいまだに帰還できていない。

その後2008年にいたるまで、サラエヴォの人口は正確には把握されておらず、国際連合統計局(United Nations Statistics Division)や、ボスニア・ヘルツェゴビナ連邦・連邦統計局、そして非営利団体による推計があるのみである。

2011年の時点で、サラエヴォの4自治体の人口は合計で311,161人と推計され、この4自治体を含むサラエヴォ県の人口は438,757人と推計されている[1]1,276.9平方キロメートルの面積を持つ、サラエヴォの人口密度は2,202.9人/平方キロメートルであるとみられる。サラエヴォの4自治体のなかで最も人口密度が高いのはノヴォ・サラエヴォであり、その人口密度は7524人/平方キロメートルである。一方、サラエヴォの4自治体のなかで最も人口密度が低いのはスタリ・グラードであり、2742人/平方キロメートルである[40]

紛争によって大規模に街の民族的・宗教的な特徴は塗り替えられた。サラエヴォは何世紀にもわたって多文化都市であり[41]、「ヨーロッパのエルサレム」と呼ばれることもあった[42]。紛争直前の1991年の時点で、ボシュニャク人はサラエヴォの人口の49%を占め、次いで、主に正教会に属するセルビア人が34 %、主にカトリック教会に属するクロアチア人が7%であった。
通信とメディア

ボスニア・ヘルツェゴビナの首都として、サラエヴォはボスニア・ヘルツェゴビナの多くのニュース・メディアが拠点としている。通信と放送の設備のほとんどは紛争によって破壊されたものの、終戦後にボスニア・ヘルツェゴビナ上級代表局による支援のもとで復興された[43]。たとえば、サラエヴォでは、インターネットは1995年に初めて使用可能となった[44]

オスロボジェニェ(Oslobo?enje、「解放」)は1943年に創設され、紛争後のサラエヴォで運営期間が最も長く、紛争を生き延びることのできた唯一の新聞であった。しかし、発行部数では1995年創刊のドネヴニ・アヴァズ(Dnevni Avaz、日刊「声」)や、ユタルニェ・ノヴィネ(Jutarnje Novine、「朝のニュース」)に追い越された[45]。その他に地元で定期的に発行される新聞としては、クロアチア語の新聞フルヴァツカ・リイェチ(Hrvatska rije?)や、ボスニア語のスタルト(Start)、週刊誌のスロボダナ・ボスナ(Slobodna Bosna、「ボスニア解放」)、BHダニ(BH Dani「BHの日々」)などがある。ノヴィ・プラメン(Novi Plamen)は月刊誌であり、左翼思想を代表している。

ボスニア・ヘルツェゴビナ公共放送サービスは、サラエヴォの公共放送局であり、ボスニア・ヘルツェゴビナの3つある公共放送のうちのひとつである。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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