サラエヴォ
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2006年のロンリープラネットの「世界の都市」ランキングでは、43位にランクインしている[35]

スポーツ関連の観光産業では、かつての1984年冬季オリンピックの設備、特に、付近のビイェラシュニツァ山イグマン山ヤホリナ山トレベヴィチ山トレスカヴィツァ山のスキー施設を用いている。

サラエヴォの歴史や文化は、東西それぞれの帝国の影響を強く受けており、サラエヴォ観光の魅力となっている。サラエヴォは数世紀にわたって旅行者を受け入れ続けている。これは、サラエヴォがオスマン帝国オーストリア=ハンガリー帝国の交易の拠点であったことによる。

サラエヴォの観光のみどころの一例を挙げれば、ボスナ川の源泉があるヴレロ・ボスネ公園、カトリック教会のイエスの聖心大聖堂、ガジ・フスレヴ=ベグ・モスク(Gazi Husrev-beg's Mosque)などがある。サラエヴォの観光産業は主に歴史的、宗教的、そして文化的な要素に基づくものである。
ガジ・フスレヴ=ベグ・バザール屋根のついたバザール

ガジ・フスレヴ=ベグ・バザール(Gazi Husrev-begov bezistan)は、1542年から1543年にかけてガジ・フスレヴ=ベグによって建設された、屋根で覆われた市場である[36]。設計に携わったのはラグーサの職人たちである。長さ109メートルにわたって、50を超える店舗が立ち並んでいる。
ガジ・フスレヴ=ベグ・モスク

1900年ごろに描かれたガジ・フスレヴ=ベグ・モスク。

モスクの庭の様子

ガジ・フスレヴ=ベグ・モスクは、ガジ・フスレヴ=ベグ(Gazi Husrev-beg)によって1531年に建てられたモスクであり、美しいオスマン建築の建築物である[36]。モスクを設計したのはミマール・スィナンであり、スィナンはヴィシェグラードソコルル・メフメト・パシャ橋や、イスタンブールスレイマニエ・モスクを設計した人物である。

ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争のとき、モスクはボシュニャク人の象徴として攻撃対象とされ、サラエヴォ包囲ではガジ・フスレヴ=ベグ・モスクも大きく損傷を受けた。紛争終結後の1996年から修復が始まった。しかしながら、このときの修復資金にはサウジアラビアからのものが多く、修復に際してはワッハーブ派の影響を受けた。修復後のモスクからは色彩や装飾的な要素は取り払われ、白を基調とした質素なつくりとなった[37]2000年から、モスクを紛争前の姿に戻すための、完全な修復の作業が始まった。単に「ベグのモスク」(Begova d?amija)とも通称される。
バシュチャルシヤ

バシュチャルシヤの様子。左に写っているのはセビリ

バシュチャルシヤの町並み。中央はブルサ・バザール

バシュチャルシヤにあるレストラン

サラエヴォの名物料理の一つであるチェヴァプチチ

バシュチャルシヤは、サラエヴォの旧市街のメイン・ストリートで、16世紀アラブのスークをモデルに建造された商業地区であった[36]。バシュチャルシヤでは金属細工や陶磁器、宝石などが売買されていた。バシュチャルシヤには、1551年にルステン・パシャ(Rustem pasha)によって建てられたドーム状の屋根がついたブルサ・バザール(Brusa bezistan)もある。ここでは、トルコのブルサから持ち込まれた絹製品が売られていた[36]。また、1891年に建てられ、サラエヴォの代表的なシンボルとなっているセビリ(Sebilj)は独特の形状をした水汲み場で、バシュチャルシヤの中央に位置している。その名前は、アラビア語で「道」を意味する「Sebil」に由来している[36]
ラテン橋ラテン橋。サラエヴォ暗殺事件の現場。

ラテン橋は、オーストリア=ハンガリー帝国の帝位継承者フランツ・フェルディナント大公夫妻が、ガヴリロ・プリンツィプに殺害された(そのため一時プリンツィプ橋と呼ばれた)、サラエヴォ事件の現場となった橋である。かつて木造だった橋は水害によって破壊され、1798年に再建された[36]1914年、この橋の北で、大公夫妻が暗殺され、第一次世界大戦のきっかけとなった。橋はユーゴスラビアの愛国主義を記念し、プリンツィプ橋と改称されたが、ユーゴスラビア崩壊後にその呼称はかつてのラテン橋に戻された。
セルビア正教会の大聖堂セルビア正教会生神女誕生大聖堂

サラエヴォのセルビア正教会大聖堂は、正式名称を「生神女誕生大聖堂」と言い、生神女聖母マリア)の誕生を記念する大聖堂である。サラエヴォの正教徒のために1863年から1868年にかけて建造された[36]。聖堂は3つのバシリカと、十字架を備えた5つのドームを有している。
カトリック教会の大聖堂

サラエヴォのカトリック教会の大聖堂は、正式名称を「イエスの聖心大聖堂」といい、ボスニア・ヘルツェゴビナで最大のカトリックの大聖堂であり、イエス・キリスト聖心を記念するものである。1884年から1889年にかけて建造された、ゴシック風の建築である。その入り口の上の窓のデザインは、サラエヴォ県の県旗や県象に描かれ、またロマネスク風の2本の塔はサラエヴォの市旗や市章に描かれている。
イナト・クチャ

オーストリア=ハンガリー帝国がサラエヴォを含むボスニア・ヘルツェゴビナを支配していた時代の1914年、帝国はサラエヴォの旧市街に市役所と図書館のための土地を求めた[38]。その予定地には2つのハマムとともに1つの家があり、その所有者に売却を求めたものの、所有者はそれを拒み続けた[36][38]。帝国当局が所有者を脅迫するに至り、ようやくその所有者はその土地を立ち退き、当局への遺恨の意思を示すため、家を解体して一片一片移動させ、ミリャツカ川の対岸に家を再建した[38]。この家は、「遺恨の家」を意味する「イナト・クチャ」(Inat ku?a)の名でレストランとして営業されている[38]


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