サラエヴォ
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多くの市民が殺害されたり、移住を余儀なくされたことにより、1995年の時点での人口は紛争前の64%に相当する334,663人にまで減っていた[23]。多くの市民が包囲された町から地下トンネル等を使って脱出した。また、サラエヴォのセルビア人市民の中には、セルビア人勢力支配地域へ逃げ込む者もいた[22]。他方で、セルビア人勢力の占領下となった地域では、ボシュニャク人ムスリム人)を主体とする非セルビア人の市民が殺害されたり、強制的に追放されるといった民族浄化が行われた[22]

2003年1月、旧ユーゴスラビア国際戦犯法廷の法廷では、スルプスカ共和国軍のサラエヴォ=ロマニヤ軍団の第一司令官であったスタニスラヴ・ガリッチ(Stanislav Gali?)は、サラエヴォに対する包囲と恐怖狙撃によって、人道に対する罪の罪を認定され、終身刑を言い渡された[24]。罪状の中には、第1次マルカレ虐殺での罪も含まれていた[25]2007年、ガリッチに代わってサラエヴォ=ロマニヤ軍団の指揮官となったセルビア人の将軍、ドラゴミル・ミロシェヴィッチ(Dragomir Milo?evi?)は、第2次マルカレ虐殺を含む、サラエヴォの包囲と市民への恐怖狙撃によって有罪を認定され、懲役33年を言い渡された。法廷では、マルカレ市場は1995年8月28日に、サラエヴォ=ロマニヤ軍団の地点から120mm迫撃砲弾で砲撃されたものと認定された[26]
ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争終結後

サラエヴォの復興開発はデイトン合意が結ばれた1995年11月以降に始まった。

2003年の時点で、町のほとんどの部分は再興されるか再開発され、紛争による目に見える破壊された建物の痕跡は町の中心ではわずかとなった。第二次世界大戦時に使用された砲弾筒が発掘され、サラエヴォにて洗浄・装飾され、工芸品として売られている。現代的なオフィス・ビルディングや高層建築物が各地で建設されている[27]

ユダヤ教のシナゴーグ、サラエヴォ・シナゴーグ (Sarajevo Synagogue)。

セルビア正教会のサラエヴォ大聖堂(生神女誕生大聖堂

カトリック教会のサラエヴォ大聖堂(イエスの聖心大聖堂

フェルヘド=ベゴヴァ・モスク (Ferhad-begova)。サラエヴォにある168のイスラム教のモスクのうちの一つ

政治サラエヴォを構成するサラエヴォ県内のツェンタル、ノヴィ・グラード、ノヴォ・サラエヴォ、スタリ・グラードの4つの自治体

サラエヴォはボスニア・ヘルツェゴビナの首都である。また、ボスニア・ヘルツェゴビナを構成する2つの構成体(エンティティ)のうちの1つであるボスニア・ヘルツェゴビナ連邦の首都でもあり、またサラエヴォ県の県都でもある(イストチノ・サラエヴォ)。また、ボスニア・ヘルツェゴビナのもう1つの構成体であるスルプスカ共和国の法律上の首都でもある(スルプスカ共和国の事実上の首都はバニャ・ルカである)。国家、構成体、県はそれぞれ独自の議会と裁判所をサラエヴォの町の中に持っている。これに加えて、多くの外国の在外公館がサラエヴォに置かれている。

サラエヴォは4つの基礎自治体(オプシュティナ)からなっており、それぞれの自治体は独自の自治体政府を持っている。4つの自治体はまた、合同で独自の憲法を持ったサラエヴォ市政府を構成している。サラエヴォの行政府 (Gradska Uprava) は1人の市長と2人の副市長、そして内閣によって構成されている。立法府は市議会 (Gradsko Vije?e) である。市議会には28人のメンバーがいて、うち1人の議長、2人の副議長、1人の書記官を含む。議員はそれぞれの自治体から、概ね人口比率に従って選出される。市政府にはまた司法府もあり、ボスニア・ヘルツェゴビナ上級代表の「上級司法検察委員会」で定められた紛争後の法体系に基づいている[28]

サラエヴォを構成する基礎自治体は、更に地域共同体 (Mjesne zajednice) に分かれている。地域共同体はサラエヴォの行政のごく一部を担っており、一般市民が市の行政に参加する機会を持たせることをその主目的としている。地域共同体は街の街区を基盤としている。

ボスニア・ヘルツェゴビナの議会はサラエヴォにおかれており、ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争において大きな損害を受けている。その損害の影響で、業務を遂行するために、人員や文書は付近にある地上階のオフィスに移動された。議会の復興は2006年末に始められ、2007年に完了した。復興費用の80%はギリシャ・バルカン復興プログラム(ESOAV)を通してギリシャ政府から拠出され、20%はボスニア・ヘルツェゴビナ政府が負担した。
経済ガジ・フスレヴ=ベグ(Gazi Husrev-beg)の墓。サラエヴォ・ビール醸造所(Sarajevska Pivara)

紛争後の年月がたつと、サラエヴォの経済は復興・回復プログラムの対象となった[29]。サラエヴォの経済拠点のうち、ボスニア・ヘルツェゴビナ中央銀行は1997年にサラエヴォで開業し、サラエヴォ証券取引所は2002年に取引を開始した。サラエヴォの重要な生産、行政、観光産業は、巨大な地下経済に結びついている[30]。サラエヴォはボスニア・ヘルツェゴビナで最大の経済活動の拠点となっている。

共産主義時代、サラエヴォは重要な産業の中心地であった。紛争後のサラエヴォの生産業には、タバコ、家具、衣類、自動車、通信機器などがある[18]。サラエヴォに本社を置く会社には、B&H航空、BHテレコム(BH Telecom)、ボスマル(Bosmal City Center)、ボスナリイェク(Bosnalijek)、エネルゴペトロル(Energopetrol)、サラエヴォ・タバコ製造(Sarajevo Tobacco Factory)、サラエヴォ・ビール醸造所(Sarajevska Pivara)などがある。これらはいずれも、ボスニア・ヘルツェゴビナで業界最大手の企業である。ユーゴスラビア時代の1981年当時、サラエヴォのGDPはユーゴスラビア平均の133%であった。[31]2011年現在、サラエヴォのGDPはボスニア・ヘルツェゴビナ中央銀行によるとおよそ167億6000万ドルのボスニア・ヘルツェゴビナのGDPの37%を占めている。[32]

また、観光もサラエヴォの経済において重要な産業となっている。サラエヴォの観光客数は2011年には256,628人を記録し、2010年との比較では10.8%伸びており延べ宿泊日数は504,929日でこちらは2010年との比較では12.9%の伸びであった。ボスニア・ヘルツェゴビナ国内からの観光客が20.3%を占め、国外からの観光客が79.7%を占めている。国外からの観光客のうち、一番大きな割合を占めるのはクロアチアからの観光客で17.9%を占め、次いでトルコが12.3%、スロベニアが7.4%、セルビアが5.5%、ドイツが4.4%であった。アメリカやイギリスからの観光客数も大きく伸びている。[33][34]
観光

サラエヴォは前述の通り観光産業が盛んである。2006年のロンリープラネットの「世界の都市」ランキングでは、43位にランクインしている[35]

スポーツ関連の観光産業では、かつての1984年冬季オリンピックの設備、特に、付近のビイェラシュニツァ山イグマン山ヤホリナ山トレベヴィチ山トレスカヴィツァ山のスキー施設を用いている。

サラエヴォの歴史や文化は、東西それぞれの帝国の影響を強く受けており、サラエヴォ観光の魅力となっている。サラエヴォは数世紀にわたって旅行者を受け入れ続けている。これは、サラエヴォがオスマン帝国オーストリア=ハンガリー帝国の交易の拠点であったことによる。

サラエヴォの観光のみどころの一例を挙げれば、ボスナ川の源泉があるヴレロ・ボスネ公園、カトリック教会のイエスの聖心大聖堂、ガジ・フスレヴ=ベグ・モスク(Gazi Husrev-beg's Mosque)などがある。サラエヴォの観光産業は主に歴史的、宗教的、そして文化的な要素に基づくものである。
ガジ・フスレヴ=ベグ・バザール屋根のついたバザール

ガジ・フスレヴ=ベグ・バザール(Gazi Husrev-begov bezistan)は、1542年から1543年にかけてガジ・フスレヴ=ベグによって建設された、屋根で覆われた市場である[36]。設計に携わったのはラグーサの職人たちである。


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