サラエボ旅行案内
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^ 連邦憲法裁判所は、1990年のスロヴェニア、クロアチア、セルビアの主権宣言や新立法は無効だと判断した。しかし各共和国の政権は判断に従わず、クロアチアとスロヴェニアは連邦法規定の無効を宣言した[5]
^ スロヴェニアとクロアチアは地理的に西ヨーロッパに近く、経済的にも連邦内で発展している地域だった。独立を選んだ理由には、経済的な主権を得るという目的もあった[6]
^ ボスニア・ヘルツェゴヴィナにおける民族主義政党は、オスマン帝国時代のミッレト制が影響していた。ミッレト制は民族=宗教を基本とする共同体に自治権を与えたため、近代以降に民族政党が成立した[8]
^ EU(当時はEC)による仲介の失敗も対立を悪化させた。ボスニア・ヘルツェゴヴィナのセルビア人議員はセルビアへの合併を望んでおり、独立宣言はセルビア人議員が欠席する中で採択された。ECは独立承認を強行したため、セルビア人勢力は旧ユーゴ連邦軍の支援を受けてボシュニャク人やクロアチア人への攻撃を開始した[9]
^ 紛争によってサラエヴォに戻れなくなった者が世界各地におり、日本で活動した音楽家のヤドランカもサラエヴォ出身だった[11]
^ ユーゴスラビア人は、社会主義体制下での統合概念として導入された。ソビエト連邦におけるソ連人と同様の概念として始まったが、民族間の混在が進むにつれて、ユーゴスラビア人を選ぶ市民が増えていった。また、マイノリティが他民族への同化に抵抗する手段としても選択された[12]
^ 紛争前の1991年に行われた国勢調査の自己申告では、3民族以外ではユーゴスラビア人(24万人)、不明(35000人)、モンテネグロ人(約10000人)、ロマ(約8900人)、アルバニア人(約4000人)、ウクライナ人(約4000人)、スロヴェニア人(約2200人)という回答だった[13]
^ サラエヴォという名称は、トルコ語のサライ(宮殿)とオヴァシ(野原)をスラブ語風に合成した語を由来とする。ボスニアを統治していたオスマン帝国の施設がもとになったとされ、1455年には「サラエヴォ」という名称が文献にある[17]
^ ボスニア・ヘルツェゴヴィナには「イナト」という言葉があり、日本の「意地」に近い。悲惨さを笑うユーモアの精神は、イナトの表れでもある[25]
^ ランチパックは主にアメリカ軍のレーションで、湾岸戦争(1990年-1991年)などで使われた残り物だった[33]。ランチパックは種類によって番号があり、12番が人気だった[34]
^ 配給された缶詰の中で、イカール缶詰は味の評判が悪かった。終戦後もそのまずさを忘れないように、イカール缶詰の記念碑が建てられた[25][36]
^ 2006年にサッカー日本代表の監督をつとめたイビチャ・オシムはサラエヴォ出身で、サラエヴォ包囲当時に家族がサラエヴォにいた。オシム自身はギリシャやオーストリアにいたため、アマチュア無線で家族と連絡をとった[42]
^ 1992年の4月28日時点で、銀行には預金引き出しの行列ができ、外貨は引き出せず、小切手は受け取る者がいなくなっていたという記録がある[47]
^ 包囲中の1992年、現代美術館であるアルス・アエヴィ現代美術館(英語版)は作品の寄贈を国外に呼びかけ、世界の芸術家の作品を所蔵して開館した[55]
^ 包囲中にもロック・コンサートが開催された[56]。1994年には、アイアン・メイデンのメンバーでもあるブルース・ディッキンソンがサラエヴォでライブを行なった[57]
^ オスロボジェニェは「解放」を意味する。1992年にBBCなどが選定する世界最優秀新聞賞、1993年にサハロフ賞を受賞した[60][61]
^ 1993年には小説家・思想家のスーザン・ソンタグによってサミュエル・ベケットの『ゴドーを待ちながら』が上演された。俳優の中には空腹で倒れる者もおり、ソンタグはスイカを入手して俳優に配った。カピッチは、「ゴドーを待つことは、同時に救いでもあった」と語っている[63]
^ 旧ユーゴスラビアで展開した国連防護軍は44000人以上で、うちボスニア・ヘルツェゴヴィナには20000人以上が駐留した。しかし停戦協定を守らせることができず、各勢力からの攻撃を受けて死傷者を出した。国連安保理決議836の内容的にも、安全地域の防衛そのものは国連防護軍に認められていなかった[65]
^ NATOによる空爆は1994年から小規模に行われていたが、1995年8月にサラエヴォ中央市場で多数の死者が出た砲撃をきっかけに大規模な空爆が行われた[71]
^ 中央政府の弱体化によって、民族主義政党による行政の妨害や政治の膠着も起きている[72]
^ マイノリティであるロマとユダヤ人が原告となり、憲法規定が欧州人権条約に違反しているとして欧州人権裁判所に提訴し、原告の訴えは認められた。この裁判は原告のロマとユダヤ人の名をとって「セイディチ・フィンツィ裁判」と呼ばれる[76]
^ サラエボ包囲と同時期には、ルワンダ虐殺(1994年)や第一次チェチェン紛争(1994年-1996年)が起きた。その後、1995年の地下鉄サリン事件、2001年のアメリカ同時多発テロ事件、2002年のモスクワ劇場占拠事件などが起きた[63]

出典^ ハリロビッチ編 2015, p. 5.

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