サムスン電子
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半導体で先行する日本を目標とする「東京宣言」を発表し、三星電子の東京支店が同年に開設され、日本から大韓民国半導体製造装置の輸入を開始した[15]。製造技術は1970年代より提携先であったシャープの支援を受けた。翌1984年にはマイクロンより設計技術移転の支援を受け、6か月の開発期間を経てマイクロン東芝に続く世界で3番目の64kのDRAMを開発[16]。同年、光州電子を合併して、三星電子工業から三星電子に会社名が変更された。

程なく256K DRAMの開発にも成功する。一方日本の東芝(東芝のDRAM部門は後にマイクロンに買収)は、1984年に舛岡富士雄が世界初のNOR型フラッシュメモリを開発、1985年に世界初の1M DRAMを開発、1987年に世界初のNAND型フラッシュメモリを開発するなど盛んに次世代メモリの開発を行なっていた[17]が、東芝やマイクロンなどのトップ企業が次世代メモリに移行することで旧世代メモリの品薄現象が生じたため、あえて256K DRAMに注力した三星は1988年だけで3200億ウォンの莫大な純利益を出し、一気に会社の規模を拡大した[18]。この経営判断を行ったのが李秉浮フ三男である三星グループ副会長の李健熙で、李秉浮ェ1987年に死去した後は李健煕が三星グループの第2代会長に就任する。1992年には世界初の64M DRAMの開発に成功、1993年にはDRAM市場で13.5%のシェアを確保し、12.8%に留まった日本の東芝を抜いてついにシェア世界1位となった。以来トップを維持している。なおNAND型フラッシュメモリでも2002年に世界1位となっている。

1988年に携帯電話を開発、1992年には10.4インチのTFT液晶モニタを開発するなど、2000年代以降の主力商品となる基礎もこの頃に開発された。しかし当時のサムスン製品は粗悪品が多く、半導体以外の事業ではグローバル市場で成功していなかったため、新たに会長となった李健煕は1988年、量より質を重視し、変化と改革を求める新しい経営理念「第2創業」を宣言。1993年には「新経営」宣言を出している。
日本との関係「シャープ#競合他社への革新技術供与」および「東芝#DRAM」も参照

1986年東芝半導体事業本部長川西剛[注 5]は国際担当専務の仲介で李秉負長や幹部総出のVIP歓迎を受けて建設途中の半導体工場を視察し、見返りに当時世界最大容量1メガビットDRAMを開発中の最新鋭大分工場を見学[19]させている。1986年、三星電子も1メガビットDRAMを開発し、東芝大分工場生産ラインを統括担当する製造部長をスカウトして大分工場と同等設備を有する製造工場を建設している[17]

1987年5月にアメリカと日本へ研究所を設立し、1988年に半導体事業売上高9億500万ドルで半導体メーカー売上高ランキング18位になる。

1988年、日本の半導体企業は半導体企業トップ10社中6社を占めるが、1991年バブル崩壊による資金繰悪化でメモリー事業撤退や工場閉鎖など大掛かりにリストラすると、三星電子は韓国政府のバックアップを受けて東芝、松下電器三洋電機シャープNECなどからリストラされた日本人技術者を高給でヘッドハンティングし、日本人技術顧問が外国人技術者中77名と大半を占めた結果、最新技術を得る[17]

1992年、東芝とサムスン電子はフラッシュメモリの共同開発と技術仕様・製品情報の供与契約を締結する。1993年、サムスン電子は韓国初の6メガバイトフラッシュメモリを開発する。1995年、東芝とサムスン電子は64メガビットフラッシュメモリ技術の共同開発で提携する[17]

1994年3月、NECとサムスン電子は当時世界最大容量256メガビットDRAMの共同開発・情報供与契約を締結する。その時点で256メガビットDRAMを開発したメーカーは世界で日立製作所とNECのみ。1994年8月、サムスン電子は「世界初」の256メガビットDRAM開発を宣する[20]

1993年半導体製造装置メーカーである大日本スクリーンTOWAの現地法人(それぞれに韓国ディエヌエス、韓国トーワ)に資本参加し、半導体製造装置技術を得る。2000年代以降、増資を通じて両社を子会社化しながら社名も変え、2012年には両社を合併させる。現・SEMES(朝鮮語版)(セメス)社[21]

通産省が日の丸半導体の先端優位を続けるため1996年に始めたコンソーシアム「半導体先端テクノロジーズ」に日本メーカー10社以外にも、国際化する世界半導体業界の傾向に鑑み、サムスン電子の加入を受け入れる。しかし、結果的には日本メーカーの復活ではなく、サムスンの国際化と先端製造技術の獲得に繋がり、2000年代以降NECなどの日本メーカーが次々半導体から撤退するとまた多くの技術者がサムスンに流れることになる[22]

半導体メーカー売上高ランキングでは1991年は14億7300万ドルで12位、1995年は83億2900万ドルで6位、2002年から2016年まで米国インテルに次ぎ2位である。

日本最後のDRAMメーカーであるエルピーダが2012年に破綻すると残りのDRAM大手3社(サムスン電子・ハイニックス・マイクロン)の業況は持ち直し、特に2017年よりはDRAM業界が空前の好景気に入り、2017年と2018年のサムスン電子のランキングは1位となる。

2000年代から現在まで.mw-parser-output .tmulti .thumbinner{display:flex;flex-direction:column}.mw-parser-output .tmulti .trow{display:flex;flex-direction:row;clear:left;flex-wrap:wrap;width:100%;box-sizing:border-box}.mw-parser-output .tmulti .tsingle{margin:1px;float:left}.mw-parser-output .tmulti .theader{clear:both;font-weight:bold;text-align:center;align-self:center;background-color:transparent;width:100%}.mw-parser-output .tmulti .thumbcaption{background-color:transparent}.mw-parser-output .tmulti .text-align-left{text-align:left}.mw-parser-output .tmulti .text-align-right{text-align:right}.mw-parser-output .tmulti .text-align-center{text-align:center}@media all and (max-width:720px){.mw-parser-output .tmulti .thumbinner{width:100%!important;box-sizing:border-box;max-width:none!important;align-items:center}.mw-parser-output .tmulti .trow{justify-content:center}.mw-parser-output .tmulti .tsingle{float:none!important;max-width:100%!important;box-sizing:border-box;align-items:center}.mw-parser-output .tmulti .trow>.thumbcaption{text-align:center}}Samsung Galaxy スマートフォン


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